始業五分前。
 トイレからのっそり一紗が出てきた。目と目のまわりが赤い。
「困った。腫れが取れない」
ハンカチで腫れている目のまわりを押さえる。
「みんな親切だから心配するだろうな。ウサギの真似ってごまかせないかな。ダメだ肌が白くない」
「何バカな事を言ってる」
近くから聞き慣れた声。
 外にはねた固い黒髪の、無表情の少年が立っていた。
「暁彦くん…。どうしてここに?」
「二瓶と水瀬だったか、親切なクラスメイトとやらにせっつかれたから来た」
無表情のまま暁彦が答える。二瓶志穂と水瀬明里、友人が気にかけてくれたらしい。
「やっぱ心配かけちゃったか。後でしっかりお礼しなきゃな」
うちにあるお茶菓子でごまかせないかとブツブツとつぶやく一紗。暁彦は睨みつけるように見つめたまま何も言わない。
 沈黙に耐えるように、グッと唇をかみしめる。

 どうして無事でよかったと思えないのか。
 どうして側にいられないことが寂しいのか。

 スカートを握りしめ、深呼吸をしてから思い切って口を開く。
「暁彦くんと梨乃さんが無事でよかった」
「それはこっちのセリフだ」
一紗を睨みつけたまま憮然と暁彦が答える。
「そもそも言ったはずだ、もう俺にかまうなと。なのにきさまは言うことを聞かずに教会にまで来やがった」
「ぶ…無事だったからいいじゃん。結果オーライってことで」
「お前が無事だったのは強運以外のなにものでもない。一歩間違えたら怪我したり死んでたかもしれないんだ」
ギロリと暁彦が睨む。バツが悪くなった一紗は冷や汗をかきながらあさっての方向を向く。
「…とはいえ」
先ほどよりいくぶん穏やかな口調で暁彦が言葉を発する。視線を戻すとやはり穏やかな瞳でこちらを見ている。
「一紗が来たおかげで、俺が目を覚ましてここにいるのも事実だ。そこは感謝する」
「い、いや、そんな。あの時は夢中になってただけだし、梨乃さんがいなかったら何もできなかったよ」
「梨乃も同じ事を言ってた。一紗がいなければ何もできなかったと」
「本当にたいしたことじゃないって」
言葉とは裏腹にまんざらでもない様子の一紗。
「ともかく、こっちに戻ってくれてよかった」
暁彦を見つめる一紗。笑ってはいるがどこかぎこちない。
「暁彦くんは無愛想だけど根っこは親切だから、すぐに友達もできるよ。クラスメイトはみんないい奴だし、クラスにもなじめると思う」
貼り付けた笑顔のまま、スッと暁彦から視線を外す。
「…きっと…彼女もすぐにできるよ…」
言ってから一紗は下を向き、足早に暁彦の横を通り過ぎる。
「いい加減戻ろう。ホームルーム始まっちゃう」
背中を向けたまま一紗は言うが、声はかすれ、引きつっている。
「おい」
「山部先生、本鈴鳴ったらすぐ来るよ」
「おいってば」
「来ないなら置いてくよ。遅刻したくないからさ」
「一紗!」
早足に去ろうとする一紗の手を、暁彦が掴む。
「ちょっとお! 遅刻するだろ!」
振りほどこうと一紗はもがくが力で敵うはずもなく、肩を掴まれて無理やり方向転換させられる。
 一紗の目は真っ赤で、涙が今にもこぼれそうなくらいあふれていた。
「な、なんだよ」
即座に顔をそらす一紗。しかし暁彦はさらに手を強く握る。
「お前はいつも勝手だ」
「なっ…」
「俺が何を言っても聞かず、勝手に首を突っ込んで引っかき回して傷ついて。それでいて俺が止めると行こうとする」
「勝手で悪かったな。暁彦くんが何考えてるかわかんないから、勝手やるんじゃん」
「詭弁だ。でもそのとおりだな」
涙をためたまま、一紗は顔を戻す。暁彦の表情は変わらないが、真剣なまなざしで少女を見つめている。
「俺は今まで一人で何でもやろうとしていた。お前はずっと俺の味方でいてくれたのに、振り向こうともしなかった」
暁彦が手を離すが、一紗は逃げることなく、瞳を見開いて少年を見ている。
「変なことを尋ねるが」
「なに?」
めずらしくもごもごとつぶやいた後、暁彦は口を開く。
「お前は俺のこと…その…まだ、好きか?」
「す…すっ…ええっ!?」
ボンと音が聞こえるのではという勢いで一紗は真っ赤になる。意味もなくキョロキョロし、手を組んだり解いたりしている。
「な、なな、何を突然」
「ちなみに、恋愛対象の言葉と受け取っていいんだな」
「れれ、れ、れ、恋愛ってちょっとっ!」
体じゅう真っ赤にして冷や汗をたらす。ひょっとしたら湯気が出ているかもしれない。ギクシャクとあたりを見回してカクカク手足を動かす様子は、どう見ても挙動不審。
「落ち着け。すごく怪しい」
「落ち着いてられっか!」
無理やり手足を止め、深呼吸し、それでも震える体を押さえる。
「す、好きに決まってんじゃん。そうじゃなきゃ…わざわざ助けに行かないよ…」
好きじゃなければ苦しくないし涙も出ない。という言葉は無理やり飲み込む。
「正直に言うと、俺には誰かを好き…まして恋愛が絡む好意というものが、よくわからない」
また、一紗の胸が締めつけられる。彼氏になるということを再び否定された気分になる。
「いつからだったか」
聞きたくない。と思ったが、少年の言葉は続く。
「心のどこかで、お前が来ることを待っていた。戸惑ったし気づかない振りをしていたが、自分がピンチの時、なぜか一紗を探していた」
「……え?」
「あのとき」
暁彦の顔がくしゃりとゆがむ。

「一紗に『さよなら』と言われたとき、寂しかった」

ホールムール開始のチャイムが鳴る。しかし二人は動かなかった。


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