「待って下さい」
 ずっと黙っていた梨乃が、はっきりした声で呼び止めた。
 けだるそうに姫野が振り返る。
「なあに? まだ用事があんの?」
姫野には返事をせず、梨乃は暁彦に向き直る。
「これでいいの、暁彦?」
答えはない。真顔の梨乃は双子の兄の側まで行き、そっと手を握る。
「本当は立ち去りたくないんでしょう」
「そ、そんなこと…」
「嘘」
握った手に力を込め、少女は言い切る。
「これがいい証拠よ」
ここで初めて暁彦は顔を上げる。梨乃は毅然とした表情で暁彦を見つめる。
「私たちが手を触れ合っていても、さっきの力は発動しない」
「え?」
「あっ!」
握られている二人の手を見て、一紗は教祖が言っていた言葉を思い出した。

『なぜ手を取り合っているのに力が発動しないんですか!?』
 二人が手を繋いで逃げようとしたとき、間違いなく教祖は叫んだ。

「教祖が言ってたんだけど」
 いったん梨乃が手を離す。暁彦の手は握られた形のまま、宙ぶらりんになっている。
「彼が『選別』と呼んでいた私たちの力は、私と暁彦が心を一つにして手を取り合ったときに発動するの。
 異能者以外を眠らせる、恐ろしい力よ」
再び梨乃が兄の手を握る。特に変化はない。
「選別…組織から逃げ出す前は、そんな力はなかったはず…」
「組織の人たちが気づいてなかったのと、私たちの力が今よりも弱かったからだと言ってたわ。事実、教会の奥では力が発動して、ほとんどの異能を持ってない人が眠ってしまった」
「そういえば…」
再び一紗は思い返す。彼らの幻を見た後に眠ったのは、暁彦本人と一紗を除けば、異能を持っていない人ばかりだった。
「暁彦がなぜ眠ってしまったのかはわからない。一紗さんが無事だったのは、幻に耐性があったのと、心が強かったからでしょうね」
「図々しいだけじゃなーい?」
姫野が茶々を入れるが、心当たりがある一紗は少々ムッとしつつも黙っている。
「アシアナ教会の中では、暁彦と私はお互いしか見てなかった。他に何も考えられなかった。だから周りを排除しようとする異能を使ってしまったんでしょうね」
梨乃はまた手を離すと、一紗を見る。黒い大きな瞳でじっと見つめられ、微妙に居心地が悪い。
「今は違う。選別の異能は発動しない」
「多分、俺も梨乃も力を使い果たしたからじゃ…」
「それもあるかもしれないけど、私は違うと思う」
暁彦に視線を戻す梨乃、柔らかい、少し悲しみを帯びた瞳で見つめ、口を開く。
「さっき私が幻を見せたとき、どうして一紗さんを助けたの?」
視線が泳ぐ暁彦。心なしか顔もこわばっているようだ。
「失礼な言い方になるけど、一紗さんを見捨てて逃げたら逃げ切れたかもしれない。なのに彼女を助けた」
「私も思ったよ。どうして助けてくれたの?」
便乗して、一紗も尋ねる。
「そ、それは…」
「未練があるんでしょう、日が当たる世界に。私たちには届かないだろう、ありきたりと言われる生活に」
「そんなこと…」
「暁彦は、一人じゃなかったのね」
梨乃が微笑んだ。木々の間から漏れる朝日が、少女の美しい笑みを柔らかく照らす。
「アシアナ教会に閉じこめられている間、私は独りぼっちだった。大事にはしてもらったけど、仲間は誰もいなかった。
 でも暁彦には味方がいたのね。私以外にも、大切にしたいものがあったのね」
言いながら梨乃は一紗を見る。暖かさの中に少しだけ垣間見える寂しい笑み。
「暁彦は居場所を作ろうと思えば作れるの。捨てるなんてもったいないわ。むしろ私も参加したい」
「梨乃…」
暁彦は考える。優しい笑みで梨乃が見つめる。
 ギュッと妹の手を握り返してから手を離すと、暁彦は姫野の前まで行く。
「姫野さん」
「なによ」

「今さらですが、俺と梨乃がここにいたいって言ったら…受け入れてもらえますか?」

 黙って姫野は暁彦を見つめる。
 暁彦も視線をそらさない。
 ニヤリ。と姫野が笑った。
「最初っから素直に言いなさいよ。面倒かけちゃってさあ」
「すいません」
ばつが悪そうに、少年は姫野の後ろにいる忠治を見る。
「怪我を負わせて申し訳ありませんでした」
「気にしないで下さい」
さりげなく怪我したところを隠しつつ、いつもの笑顔で答える忠治。
 ペシャリと音がした。一紗が地面に尻餅をつき、呆然とした顔で暁彦を見ていた。
「お、おい、どうした」
「ホッとしたら気が抜けて、力も抜けた」
呆けたまま答える一紗。梨乃がそっと暁彦の背中をつつくと、少年は戸惑いながら一紗に近づく。
 手をさしのべようと、暁彦が手を出した。


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