黒っぽい灰色のもやみたいなものが、あたりを覆っている。
〈ここが暁彦くんの心の中?〉
一紗の声が、空間いっぱいに響く。スピーカーなどはもちろん無く、それどころか声に出してしゃべったつもりもない。
 そもそも、声を出せる体がない。
 自分がここに“存在している”とはっきりわかるのに、地面に足を付いている感触も、宙を浮いている感覚もない。方向感覚すらあやしい。
〈正確には、暁彦の心の一部をわかりやすく具現化した空間〉
梨乃の返事も空間に響く。彼女の姿も見えないのに、やはり存在していることがわかる。
〈意識だけを繋いだから、体は存在しないわ〉
〈よくわかんないけど、普通じゃない空間なのは確かね。よくもまあ奇妙なことに順応したもんだな自分…って、思ったことまで垂れ流しかよ〉
心の中でつぶやいただけのつもりが、外側から自分の声が響いている感覚。本当に聞こえているのかすらわからないが、梨乃には伝わったらしい。
〈暁彦の心を繋ぐためにあなたの心の一部も開放しているから、思考がある程度意識の外に流れてしまうのは勘弁して〉
〈そういうもんか。まあ仕方ないや。思考が読まれるのは初めてじゃないし、心の奥底まで見られる感じでもないみたいだから〉
くすくす。と、梨乃の笑い声がこだまする。
〈どしたの? 何かおかしいこと言った?〉
〈いいえ、あなたならどうにかしてくれるかもって思っただけ。ここにすんなり入れたしね〉
〈入れた?〉
答えはない。梨乃に関しては自分が発言したいことだけが伝わるらしい。
〈ずるい〉
と思ったこともあたりに響く。梨乃の返事がないところから、気にしてないか無視してくれたようだ。
〈来ておいてなんだけど、どうすればいいのかな〉
〈暁彦を捜して。ここのどこかに暁彦の姿が見えるはずだから〉
〈わかった。っていっても、動きようがないのにどうやって捜したらいいものやら〉
意識だけ放り出される状態など体験したことがないので、能動的な行動を行う方法が見当つかない。
〈体がある時に探し物をするみたいに捜してみて。意識だけだから体に縛られることなく捜せるはずよ〉
〈宇宙空間に漂う感じかね。宇宙に行ったことないけど〉
とは言いつつも、すぐにフワフワ動けるはずもなく、一応キョロキョロあたりを見回すつもりになってみる。
〈いた!〉
すぐに見付かるはずが無いと思っていた暁彦の姿が、もやの合間から見えた。とにかく近づいてみる。実際に近づいているかはさておき、暁彦の姿が大きくなる。
 しかし。
〈えっと…梨乃さん〉
〈何?〉
〈暁彦くん、たくさんいるんだけど〉
一紗の言葉通り、もやの中にいろんな暁彦が存在していた。刺客と戦う暁彦。必死に逃げている暁彦。暗い部屋でうずくまっている暁彦はたくさんいる。幼い頃の彼もいるようだ。
〈心の中だから、彼の過去や思い出の分、存在が見えるの〉
〈そっか。とりあえず声をかけてみるか。えっと…暁彦くん?〉
一紗は一番近くにいる暁彦に声をかけてみる。しかし小さくうずくまっている彼は、何の反応も示さない。
〈暁彦くん。ねえ暁彦くん、暁彦くんってば〉
あちこちに見える暁彦に手当たり次第声をかけるが、全く反応はない。
〈さっきからずっとこの調子なの〉
響く梨乃の声は、悲しそうだ。
〈呼びかけに全然反応してくれない。このまま閉じこもるつもりなのかしら…〉
姿は見えないが、泣きそうになるのがわかる。
〈閉じこもる? このまま、こっちを見ずに、心の中に?〉
どこかを見ている、あるいはどこも見ていないたくさんの暁彦を眺める。どの顔を見ても表情がない、いつもの暁彦。
〈違う〉
ぽつり。と声が漏れる。
〈違う。確かに無表情の事も多いけど、怒ったり、悲しそうだったり、つらそうだったり…ほんのたまに照れたりしていた。表情の変化は乏しいかもしれないけど、色んな事を考えていたと思う。きっと考え過ぎちゃってるんだと思う〉
視界いっぱいの、たくさんの暁彦を見る。
〈ねえ、梨乃さん。こっちを見ている暁彦くんがいる〉
一紗が指差した(つもりの)方向。そっぽを向いている暁彦たちの中、まっすぐ前を見ている暁彦がいた。
〈本当?〉
〈うん。行ってみよう〉
暁彦に近づく。手が届くくらいの距離まで迫ったとき。
 突然、暁彦の周りをたくさんの人が囲んだ。
〈えっ!?〉
暁彦が戸惑う中、人々は倒れる。倒れたにしては安らかな顔。
〈眠ってるわ〉
〈眠って…あっ!〉
倒れた人物の中に、真奈美の姿が混ざっていた。よく見ると、少し前にアシアナ教会から逃げ出した元眠り病患者の人たちもいる。
〈これって眠り病になった人? 暁彦くんが眠らせたっていう…うう、思ったことが言葉になるって不便!〉
心の中にとどめておくつもりの思考が漏れてしまう。姿が見えないはずなのに落ちこんだとわかる梨乃に気づき、自分を毒づく。
〈暁彦が怖がっているのは、眠り病かもしれない〉
〈眠り病を怖がる…眠らせてしまった罪悪感とか?〉
〈やめろ! やめろ! やめろ! やめろ! やめろ…!〉
梨乃でも一紗でもない、別の声。心の主、暁彦の叫びが一帯に響いた。目の前の暁彦が、頭を抱えてうずくまる。
〈暁彦くん!〉
倒れた人を無視して暁彦に駆け寄る一紗。
〈蹴飛ばしたり踏みつけたらごめん!〉
気持ちだけが駆け寄っているので実際は蹴飛ばしたりはしてないが、そのくらいの勢いで暁彦の元に行く。
〈早く戻ってきて! 目を覚まして!〉
〈俺だって好きでやったわけじゃない…だけど…許される事でもない〉
〈暁彦…〉
梨乃も隣に来たのだろう。近くで気配を感じる。
〈俺が目を覚ましたら、また眠り病にかかる人が出てくる。自分でもわからない力が暴走するかもしれない。このまま眠っていた方が…〉
〈だーっ! いい加減にしろっ!〉
空間いっぱいに広がる大音響。
〈こんな場所でうだうだうだうだうだうだうだうだ悩んで閉じこもってたって仕方ないだろ!〉
自分で叫んでおきながら、耳をふさぎたくなるくらいの大声。これだけ大声を出しておいて反響しないのが、この空間が物理的なものでないことがわかる。
〈うるさい〉
〈知るか! 早く起きねえと顔いっぱいに落書きして写メ撮ってみんなにばらまくぞ!〉
〈あ、あの…〉
これでもかとまくし立てる一紗に、梨乃が遠慮がちに口を挟む。
〈ごめんごめん、ちょっとエキサイトしちゃった。梨乃さんも何か言ってやって〉
〈え…ええ…〉
少しだけ間が空いた後、鈴を転がしたようなかわいい声が聞こえる。
〈あのね、暁彦が何につまずいてこっちに来ないかは何となく感じてる。暁彦の力で人々が眠ってしまったのは、もう起こってしまったことなの。罪はあるだろうし、罪の意識を感じてしまうのは仕方ないけど、ここにいても何も解決しないわ。
 それに、人を起こすときに異能まで目覚めさせるかもしれない私の方が、ずっと罪が重いわ〉
〈違う! そんなことない! 梨乃は悪くない!〉
〈本当は私が眠るべきだったかも〉
〈違う違う! そんなこと言うな! 俺が…〉
〈やめろよ二人とも!! 梨乃さんまで落ちこんでどうすんだよ!〉
ひときわ大きい一紗の声が発せられる。
〈罪があるとか関係ない。暁彦くんに起きてほしいからここまで来たんだよ。だから目を覚まして戻ろう、ね〉
一紗の問いかけに、しかし暁彦の表情はさらに険しくなる。
〈本当に罪は関係ないか?〉
〈関係ない〉
〈宇都木真奈美を眠らせたのが俺でもか?〉
突然、あたりが静かになる。目の前の暁彦も、周りにいる暁彦も悲しそうな表情を浮かべた。


←前へ 次へ→