夕方。一紗はオートロックの前に立っていた。
「暁彦くん、いるのかな?」
番号ボタンに手を伸ばすが、押す前に手を下ろしてため息をついた。

 情報交換を兼ねて、克巳と一緒に夕食を食べる約束をしていたのだが、彼の都合で高清水家で待ち合わせをすることになった。家自体は既に売り出しているそうだが、荷物の片づけのために、元の家にいるとのこと。
 一つ手前のバス停で下り、克巳の家に行く前に、暁彦が住む高級マンションへと寄ってみたのだ。電話やメールがダメでも家に行けば何とかなるかと考えたが、メールですら無理なのに、直接会う勇気は、やはり一紗にはなかった。
「今夜、暁彦くんもアシアナ教会に行くんだろうね」
本人から直接聞いたわけではないが、間違いなく暁彦は行くだろう。そして無事に梨乃を助け出しても、ここに戻るとはかぎらない。
「もう、会えないのかな」
一紗がこのまま留まれば、二度と会えない可能性は高い。だがアシアナ教会に行ったところで、忠治や川上が言う通り、囮になるのが精一杯だろう。
 じわりと涙がにじむ。
「泣いたって仕方ないぞ、私。まずは克巳さんと話をしてからだ。うん、そうだ」
無理矢理気持ちを奮い立たせると、マンションに背中を向けた。

 高清水宅は、広い公園を横切ってからすぐの場所にある。
 門から中を覗くと、克巳と、茶髪の中年女性が荷物を車に積んでいた。
「こんにちは」
声をかけると、克巳と女性が笑顔で振り向く。
「こんにちは。わざわざ来てもらって申し訳ないね」
「お久しぶりです、森永さん」
「こんにちは克巳さん。お久しぶりです銀子さん」
一紗は、克巳と、高清水家の家政婦だった柏銀子(かしわぎんこ)にあいさつをする。
「この荷物を積んだら、移動できるから待っててね」
段ボールをトランクに入れながら、克巳が言う。
「最後に、あたしが家の掃除をするだけですね」
「悪いね銀子さん。最後の最後に手伝いをさせて」
「かまいませんよ。あたしも長年、この家にはお世話になってますからね。最後くらいきちんと片づけないと、罰が当たりますよ」
笑いながら銀子が家を見る。つられて克巳と一紗を家を眺める。
 大きなこげ茶色のタイル作りの家は、中に人の気配はしないが、ただ家主が留守なだけであろう雰囲気を残している。庭も手入れが行き届いていて綺麗だ。
「すぐに買い手が見つかるといいんだけど。家は人が住まないと、すぐ痛みますからね」
ポツリと銀子がつぶやく。今は綺麗な大きな家も、空き家になれば、ものすごいスピードで朽ち果てていくのだろう。
「鍵は不動産屋に渡せばいいんですよね」
「ああ、頼んだよ」
「わかりました。あっちのこと了解してます」
あっちの事って何だろう? と一紗は思ったが、家のことで色々あるのだろうと考える。
 頼もしい笑顔を向けている銀子とは対照的に、克巳は痛々しい笑みを浮かべている。自分の親が原因で家を失い、長年世話になった家政婦が職を無くしたのだ。
「何かがあれば声をかけて下さいな。力になりますよ。ずっと一緒に暮らしていたもの同士、気兼ねしなくていいですからね」
克巳の気持ちを汲み取ったのだろう。銀子が肩を叩いて克巳を励ます。
 一紗は、気さくな銀子を見て安心した。少なくとも克巳には頼もしい味方がいる。それだけで何とかなるかもしれないと、楽天的にだが考える。
(でも、暁彦くんやマナは…)
 不意に、思考がクラスメイトの二人に移る。彼らには、心から信頼できる味方がいるのだろうか。一紗のような何もできない人物ではなく、本当に頼りにできる仲間がいるのだろうか。と思う。
「どうしたんだい、一紗ちゃん?」
荷物を積み終えた克巳が、顔をのぞきこむ。
「ちょっと考え事をしてました」
我に返り、無理やり笑顔を作る一紗。若干不安そうにしているが、克巳はそれ以上追求せず、銀子を見る。
「それじゃあ、僕はここで。銀子さん、お世話になりました」
ペコリと克巳が頭を下げると、銀子は苦笑する。
「他人行儀にならなくていいんですよ」
「だけど」
「元気でやってちょうだいね。用事が無くても、たまには連絡下さいな」
「もちろん。再就職先が決まったら教えて。こっちでも当てを探してみるよ。あと、例の件は早めに連絡よろしく」
「わかってるわ。でも克巳くんは自分の生活を気にかけなさい。アイテー産業は忙しいんでしょ?」
「ITと言っても色々あるからね。でもありがとう」
二人は笑顔で握手を交わすと、銀子はそのまま家へと向かう。
「それじゃあ克巳くん、また後ほど。森永さんも、機会があったら会いましょう」
「ああ」
「はい」
 克巳は、銀子が家に入っていくのを見届けた後、一紗に車に乗るように促す。
「お待たせ。何か食べたいものはある?」
「何でもいいですけど、荷物をどこかに置いてこなくて平気ですか?」
「家に持っていくだけだから、大丈夫だよ。今日はイタリアンにしようか。いい店を知っているから。そこならゆっくり話もできるからね」
「はい」
一紗が返事をすると、克巳はちらりと家を見てから、エンジンをかけた。


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