翌日の金曜日。ようやく気象庁が梅雨入り宣言をした今日。ある意味期待を裏切らず、細かい雨が山や土や街を濡らす。
 夜埜高校1年C組。HRが終わった教室で、一紗は難しい顔で考え込んでいた。
「忠治さんの情報が本当ならば、今夜襲撃があるんだよな」
だとすると、アシアナ教会と門衛の衝突までには時間がない。
 昨日、克巳に電話をしたら「情報の裏を取るから、それまでは絶っっ対に一人で突っ走らないこと!」と念を押されてしまった。こういうあたりの信用は皆無らしい。
 自分の左隣の席を見る。やはり暁彦は今日も休みだ。そろそろ出席日数がまずいのでは。と、今思っても仕方がないことを考える。
「毎日雨で嫌んなっちゃうね」
「梅雨だから仕方ないけど、じめじめするのがなー」
例にひょって、明里と志穂が話しかけてくる。一緒にカラオケに行った後、二人は暁彦の話題には触れず、それでいて色々話しかけてくれる。細かい気遣いが嬉しい。と一紗は思う。
「そういえば、今日の英語は普通に授業をやるみたいよ」
「川上先生、学校に来たんだって」
「えっ?」
何気ない二人の会話に、一紗は目を見開く。
 1年C組の副担任で英語教諭の川上(かわかみ)キアリーは、門衛のエージェント、LHである。暁彦との戦いで怪我をしたのだが、もう回復したらしい。
「やっば、あたし予習してないわ。今日当たるはずなんだよ」
「マナがいれば聞けるんだけど。自力で頑張ってね」
「ちぇ。そうなっちゃうか」
二人の会話を、一紗はほとんど聞いていない。川上が学校で何かをするとは思えないが、自分にとっての敵で、しかも命まで狙われた相手と、どう接していいかわからない。
「どしたの森ちゃん。怖い顔して」
「そっか、森ちゃんも当たるのか。大丈夫大丈夫、一緒にやってない仲間でいようじゃないか」
「それって、明里が仲間にしようとしてるだけでしょ」
「あ、ばれた?」
などと二人が会話をしているうちに、本鈴が鳴った。クラスメイトたちは自分の席に戻る。
「おはよう、みんな。何日も休んでごめんなさいね」
シンプルなスーツに眼鏡をかけた、20代後半の女性が教室に入ってきた。地味な服装にもかかわらず、亜麻色の髪の毛と彫りが深い美貌、豊満な肉体が人目を引く。
 一紗は無表情を保とうとしたが、顔が引きつっている。川上も一紗の表情に気づき、視線を送る。
「今日は日下部は休みか。あら、今週ずっと休んでいるのね」
自分で傷つけておいて何をほざく。と一紗は心の中で毒づく。
「さすがに心配ね。だから森永は機嫌が悪いのね」
英語教師の発言に、クラスの雰囲気が凍る。暁彦の話題には触れないというのが、今のクラスでの暗黙の了解となっているのだ。
 しかし川上は雰囲気に気づかないのか無視しているのか、何事もなかったかのように一紗に近づく。
「そんなしかめっ面しないでよ。私が悪いみたいじゃない」
あんたが悪いんだろうが。と言いたいのをグッとこらえる。川上は顔を近づけると、一紗にしか聞こえない声でささやく。
「学校では何もしないわよ」
顔を離すと、今度はみんなに聞こえる声で言う。
「森永さん。昼休みに、クラス用資料をまとめるのを手伝ってくれないかしら。休んだせいで、仕事がたまっちゃってるのよ」
にっこり笑って頼んでいるが、目は「二人きりで話をしたい」と言っている。何の話があるのかわからないが、こういう言い方をされると断りにくい。
「わかりました。英語科準備室に行けばいいの?」
「ええ。さて、授業を始めましょう。久々だから、今までどんな自習をしてきたか確認してから進めましょ」
教壇に戻った川上は、教師の顔で授業開始を宣言した。


 昼休み。超特急でお弁当を食べ、やはり超特急で英語科準備室に向かう。
 部屋には川上一人だけ。他の教師は別の場所でお昼ご飯を食べているのだろう。
「いらっしゃい。そんな怖い顔をしなくていいわよ。学校では何もしないって言ったじゃない。あ、ドアは閉めてね」
なおも険しい顔で川上を見つめる一紗だが、扉は素直に閉める。
「何の用なの、先生。それともLHって呼んだ方がいい?」
「学校では川上の名前で呼んでほしいわ」
一紗の視線を流しつつ、川上ことLHが答える。
 事務椅子に座ったLHが、長い足を組み替え、言った。
「今晩、私たちはアシアナ教会を襲撃するわ」
「……!」
大声を上げそうになるのを、かろうじてこらえる。驚いている一紗を気にすることなく、川上は話を続ける。
「目的は梨乃の保護と暁彦の抹殺。ただし二人が直接接触しないことを最優先にするから、暁彦に関しては任務を達成できなくても問題なし。短期決戦だから、かなり強引な手を使うと思うわ」
世間話をするような口調で、恐ろしいことをサラリと言う。一紗は険しい顔のまま、副担任を睨む。
「乗り気じゃないけど、私も襲撃のメンバーよ」
「何が目的なの?」
睨んだまま、一紗が尋ねる。
「だから目的はさっき言ったでしょ」
「私に襲撃の話をして、何を企んでいるの?」
川上の笑みが、教師からエージェントのものに変貌する。
「あなたを囮にするつもり」
「…っ」
あまりにストレートな発言に、一紗は言葉に詰まる。
「自分でもわかってるんでしょ? あなたが行っても何も役に立たない。でも、アシアナ教会の連中からしたら、予想しない人物のが紛れ込むから、意表をつかれる。そう思わない?」
答える代わりに、目の前の女を思いきり睨みつける。
 同時に、忠治の言葉が本当であることも裏付けられた。襲撃が今夜あることは、もはや疑いがない。それに、姫野も一紗を囮にしようと企んでいることに気づいた。
「先生の言う通りだけど、私が行かなかったらどうするの?」
「どうもしないわよ。予定通りに進めるだけ。つまり、あなたはいてもいなくてもいいってわけ」
川上の一言が、少女の心をえぐる。
 頭ではとっくにわかっていた。眠り病から始まった一連の出来事に、自分が必要ないことを。
 それでも、常識では考えられないことに首を突っ込んでいたのは、真奈美の病気を治すため。そして、暁彦の気持ちを振り向かせるため。
 だとすると、今の一紗は本当にいてもいなくても変わらない。
「ちょっとだけ本音を言うとね」
女の表情が和らぐ。
「私も日下部は殺したくないの。前回は言い逃れできない立場だったけど、今回は優先順位が下がる。だから、不確定要因として森永が来れば、私も言い訳できるってわけ」
「その言葉こそ信じらんない」
「でしょうね。でも嘘じゃないわよ。あいつと同じ意見ってのが気にくわないけど」
あいつとは誰だろうと思ったが、聞いたところで答えてくれないだろうから無視をする。
「とは言いつつも、反面、あなたに来てほしくもないのよね」
「なんで?」
「だって、アシアナ教会になんて行ったら、森永が危険にさらされるじゃない」
ここで初めて、一紗は警戒心をゆるめた。生徒をいたわる教師の顔で、川上が見つめる。
「私の正体だって、ばらしたくなかった。森永とは、ただの生徒と教師でいたかったわ」
川上の笑顔がかげる。少なくとも、今の言葉だけは本音だろうな。と、一紗は思う。
「とにかく、私が言いたいのはそれだけ。後はどうするかは、あなた次第」
一瞬だけ鋭い目で見た後、教師の顔に戻る川上。一紗が何かいいあぐねているうちに、彼女は椅子を回転させる。
「用件は終わったわ。何か質問はある?」
「私たちのこと、組織の偉い人には知らせてないんですか?」
生徒の、生徒らしからぬ質問に、川上は顔を向ける。
「さあね。でも、襲撃の後にも首を突っ込んだら、あなたの命はないかもね」
質問に直接答えていないが、今はこれで十分だ。少なくとも現時点では、刺客に怯える必要はなさそうだ。
 一紗はドアへと向かう。最後に川上に振り返り「失礼します」と形式的に言ってから、準備室を出て行った。
「あーあ、言っちゃった」
 生徒がいなくなってから、川上はつぶやく。
「さて、後はどう転ぶか。難しいところね」
誰にでもなく言う川上に、笑みはなかった。


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