しとしとと雨が降り続く翌日。
 月夜埜市東南にある元夜埜地区を、傘を差した一紗が歩いている。昔の地形に沿った旧道も、排他的な雰囲気も、三回目になると少しは慣れるものだ。
 このあたりの平均的な、しかしそれなりに大きな家の一角へ、少女は向かう。『宇都木』の表札三件並ぶうちの、一番右のチャイムを押す。
「はい」
静かな女性の声がチャイムに答える。
「も、森永です」
珍しく、緊張した声で名乗る一紗。招かれざる客である自覚がある身としては、どうしても固くなるものだ。
 案の定、返事はない。しばらく静寂が支配する。
「あ、あの。おせっかいなのはわかっています。でも、どうしてもマナが心配で…」
沈黙に耐えきれず、一紗は口を開くが、返事はない。
 再び静寂。
 もう少し反応がなければ、今日は引き上げよう。と少女が思ったとき、引き戸が開いた。
「こんにちは、森永さん」
細身で小柄な女性があいさつをする。真奈美の母、満美(みつみ)である。
「こんにちは。突然お邪魔してすみません」
あわてて返事をしてから、一紗は目の前の女性を見る。
 前回会ってから一週間くらいしか経っていないはずなのに、満美は以前よりずっとやつれていて、青白い顔をしている。薄く化粧はしているようだが、目の下の隈がくっきりと浮かび上がっている。
「ごめんなさいね」
満美が、か細い声で言う。
「せっかく来てもらったんだけど、真奈美は家にいないの」
「家にいない? どうしてですか?」
抱いた疑問を、そのまま満美にぶつける。
 真奈美は、相手の心が見える異能を持ってから、人を見ることを恐れ、部屋から一歩も出なかったのだ。そんな真奈美が家にいないとなると、一紗でなくてもおかしいと思うだろう。
 少女の質問に、満美は顔をゆがめる。何回か口を動かし、ようやく言葉を発する。
「真奈美は、アシアナ教会で暮らしているの」
「…え?」
予想外の発言に、すぐには反応できなかった。が、意味を理解するにつれ、一紗も青ざめる。
「それって、本当ですか?」
答えの代わりに、母親の顔は引きつり、さらに色を失う。その様子に、本当のことだと一紗は理解した。
「何で、何でマナは、アシアナ教会に行ったんですか?」
満美が顔をしかめる。目に涙がたまっているが、どうにかこらえて言葉を続ける。
「この間、森永さんが帰るときに、アシアナ教会の人が来たでしょう。どういう理屈か知らないけれど、アシアナ教会の内部ならば、真奈美は普通に暮らせるみたいなの。私は止めたんだけど、真奈美は聞く耳を持たなかった」
「そのまま、戻ってこなかったんですか?」
一紗の質問に、満美は首を横に振る。
「一回、家に戻ってきたわ。でもそれは部屋を片づけるため。あの子は『彼らの言うとおり、アシアナ教会ならば力をコントロールできる。仲間もいるから心強い。だからそこで暮らすわ』と言って、出て行ってしまった」
「そんな…」
戻ってこなかったのならば監禁もあり得ると思ったが、真奈美は一度家に帰り、アシアナ教会に行った。真意はさておき、彼女の意思で教会に行ったことは間違いない。
 こらえきれなくなったのか、満美の目から涙がこぼれる。
「私が、私が悪いのよ。真奈美が不思議な能力に苦しめられていたのに、あの子を見ようとしなかった。私が受け止めてあげれば…」
「違います。一番悪いのは、アシアナ教会です」
顔を覆って泣く満美に、一紗は努めて冷静に言う。
「マナに変な力を与えたのも、そこにつけ込んで連れて行ったのも、アシアナ教会の連中です。マナは頭がいいから、冷静になればわかってくれるはずです。今は気持ちがすごく弱っているだけです。だから、いつか戻ってくると信じてあげて下さい」
半ば自分に言い聞かせるように話す一紗。
 満美が涙の跡をつけた顔を上げる。真奈美の母に、少女は笑顔を向ける。
「生意気なことを言いますが、マナが戻ってきたら、今度こそ受け入れてあげて下さい」
呆然としていた満美に、少しだけ笑顔が浮かぶ。涙を拭いて、姿勢を正す。
「本当にごめんなさいね、みっともないところを見せちゃって」
「気にしないで下さい。我慢は良くないですから」
友人にも同じ事を言われたよな。と、心の中で一紗は苦笑する。
「森永さん」
「はい」
「これからも、真奈美のお友達でいて下さいね」
穏やかな笑顔で、満美が言う。
「もちろんです!」
雨も吹き飛ばす満面の笑みで、一紗は返事をした。


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