消毒薬の匂いがわずかに漂う、白い無機質な部屋。病院の個室に、一人の女性が横たわっている。
 20代後半くらいの亜麻色の髪の女性は、シンプルなパジャマを身にまとっているだけにもかかわらず、華やかな美貌と豊満な肢体が目を引く。
 コンコン、と扉を叩く音。女性が入室を促す。
「気分はどうかな?」
細身の好々爺という印象の、60代の男性が入ってくる。女性は上半身を起こすと「順調に回復しています」とぶっきらぼうに答えた。
「何の用ですか?」
やはりぶっきらぼうに尋ねる女性だが、老人は気にしていないようだ。
「部下の見舞いに来るのは、上司として当然だと思わないかね、LH」
「見舞いに来るような状況に陥ること自体、自分の過失になりませんか、C」
ぶしつけな言葉も気にせず、Cと呼ばれた男はニコニコ笑う。LHと呼ばれた女性は、ますます機嫌が悪くなる。
 老人はおみやげであろう果物をサイドテーブルに置くと、近くの椅子に腰掛ける。
「お見舞いだけなら、気が楽なんだがなあ」
「ということは、アシアナ教会突入の日にちが決まったんですか?」
「ああ」
Cはキョロキョロと辺りを見回してから、小声で言う。
「土曜日の夜になった。時間は、当日の様子で決めるようだ」
「なら問題はありません。二、三日中には退院できると言われました」
「助かる。応援は頼んだが、手練はいるに越したことはない」
「で、命令は変わらないんですよね」
真顔で尋ねるLHに、Cはのんびりとうなずく。
「アシアナ教会の壊滅と、日下部梨乃の保護。そして、日下部暁彦が来ていたら、彼の抹殺」
一瞬だけLHの顔が曇るが、すぐに表情を消す。女の変化に気づいていないのか気に留めていないのか、笑顔のままCが言葉を続ける。
「最重要事項は、梨乃と暁彦の接触を避けること。その際に暁彦を取り逃がしても、罰は与えない」
「なぜ、二人を接触させてはいけないんでしょうね」
「さあ? 下手に詮索はしない方がいいと思うがな」
「わかっています」
女はため息一つ付いてから、話を進める。
「ところで、アシアナ教会の壊滅とはどこまでやるんですか?」
「可能ならば頭を潰すことだが、とりあえずは教会員を無能化すれば、後日どうにでもなるとのことだ。教会員は全部で20人余り。こっちの戦力も同じくらい。ただし、奴らの戦闘要因は半分くらいと見ていいだろう」
「あっちの本拠地に突入することを考えると、倍では少ない気がします」
「まあな。しかし、非戦闘要因は無視してかまわんからな。人数もこれ以上増やせんし、何とかするしかない」
「わかりました」
老人は頭をポリポリかきながら、あらぬ方向を見ている。
 しばらくそのままの姿勢だったら、ふと視線をLHに戻し、話をする。
「ところで、この話を森永一紗が知ったら、やってくると思うかね?」
あからさまにLHが顔をしかめる。が、やはりCは気にしないようだ。
「半々ですね。危険すぎますし、彼女が行ける場所に教会はありません」
「だが、侮れない。と」
「ええ。あの子の無鉄砲さは、かなりのものですからね。それに悪運もいい」
ハハハと老人が笑う。もちろんLHは笑わない。
「で、森永に突入のことを伝えた方がいいですか?」
「任せる」
笑顔を浮かべたままCが答える。
「森永一紗は、我々にとっても敵にとっても不確定要因だ。役に立つのか立たないのか、邪魔になるのかならないのかも、わからん」
「というか、なぜ組織は彼女を抹殺、ないしは仲間にしようとしないのでしょう?」
「もちろん、日下部暁彦がらみだろう。それに、おそらく組織は彼女の行動を知らん」
「それは、あなたが上層部に森永のことを伝えていないってことですよね?」
「そうとも言う」
これ見よがしにため息をつくLH。組織のことを知っている存在がいるのに、上層部に報告しないのは重大な違反だが、Cは一紗の件に関して、しらばっくれようとしているのだ。
 かといって、LHも上層部に報告する気はない。放置したところで問題はなさそうだし、正直、心情的に報告しづらいことは否定できない。
「恋する乙女は強いって事ですか?」
「同時に弱くもある。星の数ほど恋愛相談を受けた私が言うんだから、間違いない」
「でしょうね」
「……本音を言うとだな」
窓の外に視線を移し、Cがつぶやく。
「この任務が失敗してくれればいいと思っている」
「失敗、ですか?」
「森永一紗が乱入してくれば、日下部暁彦と梨乃の接触を避けるため、暁彦を抹殺することも、梨乃を保護することもできなかったと、上に言い訳ができる」
外を見つめる老人の目は、穏やかなまま。
「それって、森永一紗を利用すると受け取れますが」
「好きに受け取ればいい」
「…今の本音、聞かなかったことにします」
「そうしてくれ。このことを上層部が知ったら、さすがの私もただじゃすまないだろう」
よっこらしょ。とかけ声をあげ、Cが立ち上がる。
「そろそろ私は失礼しよう。ゆっくり休んで、早く回復してくれ」
「承知しました」
好々爺の笑みを浮かべたまま、Cが部屋から出て行く。
 バタン、と扉が閉まると、LHは苦々しい表情を浮かべた。
「本当、人が悪いわ、あのジジイ」
機嫌が悪そうな顔も絵になる美女は、さっきまでいた上司の悪口を吐き捨てる。
「それにしても意外ね。あいつが本音を語るなんて。それとも、本音と称した嘘なのかしら?
 どのみち、森永をどうするかは私が判断して、いざとなったら私を切り捨てるんでしょうね」
人が良さそうに見える上司は、あれでなかなか腹黒い。そのくらいでなければ組織では生き残れないし、ましてシングルネームであり続けるためには、強大な異能だけでは足りないのだ。
「ま、私はしがない部下だから、言うとおりに動くしかないんだけど」
言葉ほどには割り切れていない様子でつぶやくと、LHは再び体を横にした。


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