「来てしまった」
 放課後、一紗は暁彦が住むマンションにやってきた。手には近所で有名な洋菓子店の箱。
「先生に乗せられた気もするけど、お見舞いに来ていいものなんだろうか」
念のために忠治に電話をしたら、自分はその時間には行けないが、行ってみたらどうかと勧められた。なのでほとんど考えなしに来てみたが、いざマンションに来ると尻込みしてしまう。オートロック式の高級マンションであることも、一紗が躊躇する要因である。
「迷惑なら帰ればいっか。忠治さんも大丈夫って言ってたし」
自分勝手な解釈をした少女は、エイエイオー。となぜか小さくかけ声をあげ、オートロックの扉の前で暁彦の部屋番号を押す。
 だが、誰も出てこない。
「あれ、いない? それとも寝てるのかな? 出ないんなら帰るしかないかな…」
などと考えていると、誰かがマンションに入ってきた。なにげに入り口を見た一紗は、目を見開いた。
「暁彦くん!」
「一紗…」
玄関の脇にもたれかかるように立っている暁彦は、体のあちこちに泥や葉が付いていて、擦り傷もできている。
「どうしたの? また刺客が来たの?」
だが暁彦は答えず、そのまま奥の扉に向かう。
「ねえ大丈夫?忠治さんを呼ぼうか?」
「俺にかまうな」
引き止めようとする一紗の手を、少年は乱暴に振り払う。
「おまえには関係ない。そもそも、どうしてここにいる?」
「お見舞いに来たんだよ。怪我は擦り傷だけ? 一人で部屋に行ける?」
「だからかまうなと言ってるだろう。何度も言わせるな」
「でも…」
「いい加減にしろ!」
ガンと鈍い音を立て、少女の体は郵便受けに押しつけられる。
「痛っ! 何すんだよ…」
突然の行動に怒った一紗が怒鳴り返そうとしたが、言葉は途中で消えた。

 暁彦が、悲しそうな目で一紗を見ていたのだ。

「頼む。俺のことは放っておいてくれ。もう誰も、俺のせいで傷つけたくないんだ」
血を吐くように行った暁彦は、そのまま扉を開けて、中に入ってしまった。
 一紗は、暁彦の姿が見えなくなるまで動くことができなかった。


 しばらく呆然としていた一紗は、肩の痛みで我に返った。
「…なんだよ…」
一紗の目に涙がにじむ。
「どうして、どうして一人で抱え込むんだよ」
肩と背中がズキズキと痛む。だが今は胸の方がずっとずっと痛い。
「あんな悲しそうに、つらそうにして、放っておけるわけ無いじゃん。私が頼りなかったら、忠治さんとか他の人もいるのに」
グイと涙を拭くと。一紗は携帯電話を取り出す。
「そうだ、忠治さんに頼もう。また連絡してもかまわないよね」
マンションから出た一紗は、早速忠治に電話をかける。
〈もしもし〉
忠治はすぐに電話に出た。
〈どうしましたか? 暁彦くんのことでしょうか?〉
「はい。実は…」
さっきの出来事をかいつまんで話すと、忠治は暗い声で返事をする。
〈そうですか。2時間くらい前に暁彦くんの家に行ったときは、彼はいなかったんですよ。まさかそんなことが起きていたなんて〉
「私は突っぱねられちゃったので、時間があれば、後で様子を見に行ってもらえませんか?」
〈わかりました〉
柔らかく返事をした後、忠治は〈森永さん〉と言葉を続ける。
〈暁彦くんのこと、悪く思わないで下さいね。彼は彼なりに必死なんです〉
「それは…わかっているつもりです」
暁彦が必死なのは、一紗にもわかる。問題は全部抱え込んでしまうことなのだ。
〈また何かあったら連絡します。失礼します〉
最後に言って、忠治の電話が切れる。
「これで大丈夫かな」
マンションを見上げ、ポツリと一紗はつぶやく。
 もう誰も傷つけたくない。と、悲しそうに言っていた暁彦。彼は彼なりに思うところがあるのだろう。
 だからこそ一人にしておけないと、一紗は思う。
「プリン、無駄になっちゃったな。ぐしゃぐしゃになったかもしれない」
もう一度マンションを見上げ、重い足取りで少女は帰っていった。


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