HRが終わった一紗は昇降口に向かっていた。
「あれ?着信がある」
見知らぬ番号。市外局番は月夜埜市のものだ。
「HR前と、ついさっき二回かかってる。一回なら無視するんだけど…」
階段を下りて、そのまま電話をかける。三コール目で相手は出た。
〈もしもし、宇都木ですが〉
聞いたことある声。宇都木という苗字を聞いて、一紗の顔はこわばった。
〈もしもし?〉
「あ、も、森永です。携帯電話に着信があったので」
〈まあ、わざわざありがとうございます。宇都木真奈美の母です〉
丁寧な言葉を聞いて、一紗はやっぱりと思った。
〈突然の電話、ごめんなさいね。番号は真奈美から聞いたの〉
真奈美の母親…たしか満美(みつみ)という名前だ…が、わざわざ電話にかけてきたということは、真奈美に何かあったのだろう。
「いえ、それは大丈夫なんですが、マナになんかあったんですか?」
言ってから、一紗ははたと気づく。
(電話番号を聞いた?)
眠っているはずの友人から番号を聞く。ということは。
「マナ、目を覚ましたんですね」
〈ええ…というより、目を覚まして、今日退院したの。森永さんはお見舞いに来てくれていたから、知らせなきゃと思って〉
「そう、ですか…」
一紗は呆然とした後、取って付けたように「良かったですね」と言い添えた。
 しばしの間。考えてから、思い切って聞いてみた。
「アシアナ教会に行ったんですね」
返事はない。一紗は無言を肯定と受け取った。複雑な気持ちを隠し、さらに尋ねる。
「マナは元気ですか? 体は何ともないですか?」
〈体は平気のようだけど…〉
満美の語尾が濁る。彼女の様子になぜか胸騒ぎがする。
「なにか、あったんですか?」
再び間が空く。また質問しようとした一紗だが、その前に満美が話し出した。
〈退院してから、真奈美は「誰にも会いたくない」と言って、部屋から出てこないの〉
話す満美の声がかすれる。一紗は自分の顔がさらにこわばるのを自覚した。
「あ、あの、おばさん」
〈なんでしょう〉
「私が行ったら、マナは会ってくれると思いますか?」
〈正直、わからないわ〉
と答える満美だが、一紗に来てほしいというニュアンスが伝わってくる。無意識に携帯電話を持つ手に力を入れた一紗は言った。
「今からそちらにお邪魔していいですか?」
〈あ、もちろん歓迎するわ〉
ある意味予想どおりの答え。とはいえ、真奈美に会いたいのも事実。むしろ話がすんなりいってちょうどいいと思っている。
〈でも、時間は大丈夫?〉
「大丈夫です。マナが心配なので、ぜひお邪魔させてください」
一紗は宇都木家の住所と簡単な行き方を聞き、メモを取る。
「今からそちらに向かいますので、お願いします」
〈わかりました。森永さん、ありがとうね〉
答える満美の口調は、くたびれていた。


 電話を切ってから昇降口に向かうと、やはり掃除当番だった暁彦がいた。
 昼休みのやりとりを思い出し、一紗の心は重くなる。
(梨乃さんの事、言った方がいいのかな)
だがすぐに、暁彦の様子がおかしい事に気づく。
 暁彦は自分の下駄箱の前で、手にピンク色の紙を持って、険しい顔をしている。よく見ると便せんで、一緒にハートマークが付いた封筒も持っている。
 便せん、ハートマーク、下駄箱。とくれば、相場はひとつ。
(ラブレター!?)
心臓を貫かれるような衝撃を覚える一紗。目の前がグラグラし、手が汗ばむ。
 敵を見るような目で、暁彦はラブレターに釘付けになっている。
(だ、大丈夫。私ならいつものノリで声をかけられる。「それってラブレター?誰から誰から?」って)
深呼吸ひとつ。一紗は少年の肩にポンと手を置く。
「それってラブレ…」
極力軽く尋ねようとした言葉は、しかし最後まで言う事ができなかった。
 ものすごい形相で暁彦がにらみつけてきたのだ。
「あ…」
声をかけた体勢のまま、一紗は固まる。
 今まで何度となくにらまれた事はある。冷たい瞳で「殺す」と脅された事もある。
 だが今の瞳はもっと冷たく、それでいて何の感情も見えない。

 恐いと思うのに、目を逸らす事ができない。

「きさまは、俺がラブレターをもらっても平然としてるんだな」
「え? え?」
いきなり、暁彦が一紗の腕をつかみ、体を下駄箱に押しつけた。何事かと思う暇もなく、一紗の足の間に、暁彦の足が割り込む。
「うあっ?」
「こっちはラブレターを見られて気が気じゃねえってのに」
「な、何の事?」
「察しろよ、バカ」
「バ…バカとは何だ…」
言い返す前に、暁彦の顔が近づく。
「目をつぶれ」
静かにささやかれ、一紗は反射的に目を閉じる。間近に感じる暁彦の気配。
(ここは学校で放課後でこの状況は非常にまずいのではでは…)
頭の片隅で考えるが、混乱していて何もできない。
 本当に目の前に、暁彦の息と熱を感じた瞬間。

「一紗! 起きろ一紗!」
 暁彦の声が耳に飛び込んできた。
「…ほえ?」
肩を揺さぶられる感覚に目を覚ますと、あわてた様子の暁彦が目の前に、でも一瞬前よりは遠くに見えた。
「あれ…?」
「目を覚ましたか」
ホッとした暁彦が、一紗の肩から手を離す。ここで初めて自分が座っている事に気づく。
「すまない。また力が暴走した。呼びかけに答えてくれて良かった」
「力? ってことは、さっきのは…」
少し前に起こっていた出来事を思い出し、一紗はトマトのように真っ赤になる。
「力を使ったのは悪かったが、頼むから俺に妙な事をさせるな」
「ウギャアーッ! ごめん! マジごめんっ!!」
座った姿勢のまま、ものすごい勢いで後ずさりする一紗。下駄箱の端まで行くと、真っ赤な顔を半分だけ覗かせる。
「その様子だと、体は何ともないな」
暁彦は一紗を一瞥すると、そのまま出口に向かった。
 追いかける事はせず、一紗は少年の姿が見えなくなるまで、真っ赤になってしゃがんでいた。
「…マ…マナの家に行こう…」
 ようやく頭が動き出し、のろのろと立ち上がる。ぐったりしながら出入り口へと向かった。


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