「あいっつら、逃げ足だけは速えんだから!」
 ブツブツ文句を言いながら、一紗は暁彦がいる場所に戻る。
 すると、茂みの向こう側から、暁彦の叫び声が聞こえた。
「なっ!?」
一瞬、刺客が来たのかと怯えるが、暁彦の周りに人はいない。空に向かって何かを叫んでいる。表情は見えないが、態度がいつもの暁彦らしくない。
「どうしたんだろう?」
茂みに近づくと、暁彦の顔も見える。今まで見たことがない必死の形相で、手を上に掲げて叫んだ。
「梨乃!」
血を吐くような悲痛な声。しかし言葉を聞いたとたん、一紗の手がスッと冷たくなった。
「り…の…?」
暁彦が叫んでいるのは、女性の名前。彼の声が、自分の心臓を締めつける。
「どういう、こと?」
フラフラと茂みに向かう一紗。枝が体を引っ掻くのも構わず、まっすぐに暁彦の元に向かう。
「梨乃! どこにいるんだ! 教えてくれ!」
近づく一紗に気づく様子もなく、暁彦はなおも虚空に向かって叫ぶ。
「どうしたの暁彦くん…」
一紗が暁彦の側に来た時。

 空中に浮かぶ少女の姿が見えた。

「えっ!?」
 真っ白なワンピースを着た、腿までのまっすぐな黒髪の、人形のような美少女。半分透明で、うっすらと後ろの景色が見える。
「ちょ…」
「どこにいるんだ!?」
目を見張るような美少女は、しかしすぐに薄くなっていく。
「梨乃ーっ!!」
暁彦の叫び声と共に、少女は空中にかき消えてしまった。
「梨乃…」
呆然とする暁彦の隣で、一紗もさっきまで少女が見えていた虚空を眺めている。
「あの子…」
一瞬しか見えなかったが、黒髪の美少女に見覚えがある。
 一紗は、隣に立っている少年を見る。暁彦は、まだ少女がいた場所を見つめている。
「暁彦、くん?」
「…あ?」
一紗の呼びかけに、ようやく暁彦が我に返る。
「…おまえ、いつからそこにいたんだ?」
「少し前から。女の子の幻も、一瞬だけ見た」
すぐ側にいるクラスメイトを、暁彦は険しい顔で睨む。
 答えてくれるのだろうか。と考えたが、思い切って聞いてみた。
「梨乃って、誰?」
言ったとたん、暁彦はいきなり一紗を突き放した。
「うわっ!」
尻餅をつく一紗。暁彦は冷たい目でクラスメイトを見下す。
「何すんだ…」
「俺は梨乃を捜している。悪いが、眠り病に関心はない」
表情と同じく、冷たい声で暁彦が言う。最初にクラスで話しかけた時の顔だな。と、一紗は漠然と思う。
 だが一紗も諦めない。座ったままの姿勢で尋ねる。
「梨乃さんは…暁彦くんの、何?」
暁彦が眉をしかめる。一紗を見下ろしたまま、言った。
「恋人だ」
冷たく言い放たれた言葉に、一紗は目の前が真っ暗になった。
「だから、おまえは必要ない」
首を垂れる少女に、表情を変えずに暁彦は言い放った。
 一紗はなにも言わない。黙ったまま、下を向いている。
 砂利を踏む音が、一紗の耳に響く。暁彦が立ち去っていく音。だけど一紗は動かない。
 足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。でも、一紗は動かずに、その場にうずくまっていた。
「…あ…あは…あはは…」
乾いた笑い声。同時に、砂利にポタポタと水滴が落ちる。
「なーんだ。暁彦くん、彼女がいたんだ。一人で張り切って、バッカみたいだ私」
うつろな目でつぶやく一紗。声はかすれ、涙が地面を濡らしていく。
「暁彦くんが、あれだけ取り乱すんだもん。すっごく大事な人なんだよね。学校とか眠り病どころじゃないよなあ」
ブツブツとつぶやく一紗だが、ふと動きが止まる。
「恋人…捜してる…暁彦くんが一人で…?」
うつろな目に、少しだけ光が宿る。涙を浮かべたままの瞳で、じっと地面を見つめる。
「姫野さんが協力しているかもしれないけど…暁彦くんに眠り病の調査をさせているくらいだし…」
一紗が顔を上げる。暁彦がさっきまでいた場所を見つめる瞳は、先ほどまでのよどんだものではない。
「一人、だろうな。たった一人で梨乃さんを捜してるんだろうな」
捜し人が恋人であることは、一紗の心に重いものを残している。
 しかし同時に、暁彦を放っておけないとも思う。
「調べ物がもう一つくらい増えても、問題ないっしょ。もうちょっと失望に浸らせてもらいたいね、まったく」
言葉とは裏腹に、苦笑いを浮かべる一紗。
 平穏な普通の生活を送れると思うかと聞いていた暁彦の、寂しそうに歪んだ顔を思い出す。
「私と同じ場所にいる限りは、一人になんてさせてやんねーぞっと。後のことは後で考えるとして、今は首を突っ込んでやろ」
暁彦がいた場所を見つめながら、一紗はニヤリと微笑む。
「それが、私の守りたいものだもんね」
決意を口にして、一紗は立ち上がった。


 起きあがった一紗の目に、オレンジと黄色の光が飛び込んできた。
「ほえ?」
家が並ぶ街の先が、黄色く光っている。間もなく太陽が姿を見せるようだ。
 空を見回すと、半分くらいが紫とオレンジと黄色の光で覆われている。
「なんで空が明るいんだ? さっきまで真っ暗だったのに…」
視線を街並みに戻したとたん、景色がグラリと揺れる。
「あれ?」
目まいを感じ、一紗はへなへなとへたり込む。
「な、何が起こったんだ? 空は明るいし、体調は悪いし。まるで気絶していたみたいな…って、まさか…」
立っているのがつらいため、ベンチに腰をかけながら一紗は心当たりに行き着く。
「幻影か!」
意識・無意識に関わらず、相手が自分に対して予測する行動を幻として見せる、暁彦の異能。一紗は、まんまと幻影に引っかかったらしい。
「やられた。まんまと一杯食わされた」
言ったとたん、また目まいを覚える。
「うーん。幻影を使われたことは何回かあるけど、こんなにフラフラになったことは無かったな。こんなところで寝っ転がってたから、風邪引いたかな?」
疑問に思いながらも、一紗は先ほどの暁彦とのやりとりを思い出す。
「暁彦くんの言葉、どこまでが本当でどこからが幻影なんだろう。できれば『恋人』の部分は幻であってほしいんだけどなあ。…それに…」
一紗は、幻を見せられるもっと前、クラスメイトに気づいた直前のやりとりを思い出す。
「あの時、告白しようとしてたよな、私。うっわー…」
自覚したとたん、顔が熱くなる。クラクラするのは体調不良のためかそれ以外か。
 暁彦がクラスメイトたちに気づいてなかったら、と思うと、ものすごく恥ずかしくなる。ここは彼らに気づいた暁彦に感謝すべきなのか、複雑なところだ。
「ま、それはともかく、だ」
頭をぶんぶん振り回し、それによってさらにクラクラしたが、気にせず一紗は考える。
「梨乃さんが、暁彦くんにとって大事な人であることは間違いないし、彼女を捜しているのも本当なんだよな」
街が朝日に照らされ、オレンジ色に染まる。
 寂しそうに夜景を眺めていた暁彦。彼が、一紗たちの言う「普通の生活」に憧れていることは間違いなく、でもそこに踏み出せないのは、梨乃を捜しているためだろう事もわかる気がする。
「うん。やっぱり一人にしちゃダメだ。私のエゴかもしれないけど、気にしない。意地でも私が食いつかないとね。
 覚悟しろよ、日下部暁彦!」
勢いよく立ち上がってガッツポーズをするものの、体が付いていかずに、すぐにへたり込む。
「まいったなあ。体調悪いというのは、じれったいね」
街の先に広がる、四角が連なる地平線から朝日が昇る。黄色から白色の光が街から伸びてくる。
 白い光の帯を浴びた一紗は、暁彦と一緒に見た、少女の幻を思い出した。
「彼女、アシアナ教会にいた女の子だよな」
長い黒髪で白いワンピースを着た、人形のような美少女。暁彦が捜している梨乃が彼女だとしたら、アシアナ教会が、梨乃を捕まえていることになる。
「だとしたら、アシアナ教会の奴らは、梨乃って子が眠り病を治せることを知っていて、捕まえたのかな」
ひどく悲しそうな表情の美少女を思い出しながらつぶやく。
「だとしたら、あいつら最低だ」
柔らかい朝の光が、一紗を、周りを照らす。
 白い光の中、街を見下ろす少女の瞳には、強い意思が宿っていた。


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