翌日、日曜日の朝。ニュータウン俵山地区の、運動公園から自転車で五分の場所にある森永宅。
 築十余年の、少々痛みと汚れが見え始めた一軒家の台所から、フライパンで何かを焼く音が聞こえてくる。
「おっはよー」
朝からテンションが高い一紗が、ダイニングにやってくる。
「おはよう」
台所で料理をしている母、里子が振り返る。
「二葉は寝てるの?」
「洗面所でいつものように格闘してる。しばらく占領してんじゃん?」
 一紗はトースターにパンを入れ、さらに牛乳を取り出して自分のカップに注ぐ。
「クラスの集まりは夕方からじゃないの?」
「そうなんだけど、朝から出かけるところがあるからさ」
「そうなの。昨日も朝早くから出かけてたし。彼氏でもできた?」
ブハアッ。と派手な音がした。牛乳を吹きだした一紗が苦しそうにむせている。
「あーあー、何やってんのよあんたは。鼻から牛乳が垂れてるわよ」
「ゲフ、ゲフゲフ…マジ? どおりて牛乳くさいと思った…ゲホゲホゲホッ!」
むせた一紗は呼吸を整えると鼻をかみ、吹きだした牛乳を雑巾で拭く。他のお皿や食べ物にかからなかったのが、不幸中の幸いであろう。
「動揺したって事は、図星ね?」
 一通り拭き終わり、雑巾をゆすいだ一紗に、母親はすかさずツッコミを入れる。
「違うよ。まだ彼氏じゃないよ」
「まだって事は、意中の相手はいるわけだ。あんたは二葉と違って、彼氏を家に連れてきたことがないから、心配したのよ」
年齢の割には美人で若い里子が、楽しそうに言う。母親を見るたびに、なぜ彼女に似なかったのだろうと、一紗は思ってしまう。
 母親似の妹、二葉は、それこそ幼稚園の頃から「ぼーいふれんど」を家に連れてきていた。今日の早起きも、デートに行くためであろう。
「私はあんたくらいの年には、とっかえひっかえいろんな男と付き合ってたけどね」
「母ちゃんと一緒にされてもなー。てか、母親がそんなことを勧めていいのかよ」
「間違いを犯さなきゃ別にいいわよ」
「とか言いつつ、母ちゃんも結局は安全を選んだんじゃん」
「結婚は愛だけじゃできないのよ」
「それは愛もあったと受け取っていいのかな?」
ダイニングの入り口から男性の声。
 丸い顔に丸い瞳と丸い鼻。ぽっちゃり型の、一紗にそっくりな男性が立っている。
 否、一紗が父、隆夫にそっくりなのだ。
 両親は、職場での大恋愛の末に結婚したと聞いたことがあるが、野暮ったくてお世辞にも格好いいとは言えない父親が、競争率の激しかったであろう母親をどう落としたのかは、永遠の謎である。
「あれ。父ちゃん今日仕事なの? 本社勤めでも日曜日に仕事があるんだ」
「今日は店舗視察なんだよ。明日、代休もらうから」
言って隆夫は、一紗が焼いた食パンをトースターから取り出し、自分のお皿に乗せる。
「あー! 私のパンを取るな!」
「いいだろう別に。もう一枚焼いておくから」
娘の文句もどこ吹く風。父親は気にせずマーガリンを塗る。
「全く…ってもうこんな時間!? やべっ!」
一紗は、父親がコーヒーを飲んでいる隙をつき、マーガリンが塗られた食パンを奪うと、大急ぎでほおばる。
「おいおい。人が苦労してマーガリンを塗ったパンを食べるなよ」
「もほもほふぁ、ふぁふぁひぶぁひゃひふぁふぁんふぁほ」
「口に入れながらしゃべらないの。行儀悪い」
「ほへーん」
牛乳を流し込み、お皿とカップを流しに置いてから、一紗はあわてて台所を飛び出した。
「相変わらず落ち着きがないわねえ」
「で、一紗にも彼氏ができたって本当か?」
「まだ片思いみたいよ」
洗面所から「二葉! 早くしろ!」と叫ぶ一紗の声を聞き、隆夫は小さくため息をついた。


 『長谷部大学病院経由夜埜ダム』行きのバスに乗り込む一紗と暁彦。
 今日向かうのは、山間にある集落。初期に眠り病になった患者が住んでいた場所で、情報収集をしようと言う暁彦の提案に、一紗が乗ったのだ。
 暁彦は、水色のシャツに紺色のジーンズ。という動きやすそうな格好だが、シャツもジーンズも見る人が見ればわかるブランド品だ。
 一紗は、白い七分袖のブラウスに焦げ茶色のチェックスカート、やはり焦げ茶色のローファーを履いている。よく見ると、唇がわずかにオレンジ色に染まっている。
「そんな格好で調査できるのか?」
「ん? 大丈夫だよ。知らない人に話を聞くんだから、ちょっとは格好を気にした方がいいっしょ?」
暁彦と私服で会う為、動けそうな範囲でオシャレをしてきたのだが、当然本人には言わない。
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わずに、暁彦は前を向く。
 一紗はなぜか緊張した面持ちでこっそり深呼吸する。両手に握りこぶしを作って、小さく「よし」とつぶやくと、隣のクラスメイトの方に顔を向けた。
「あ、あ、暁彦くん」
「何だ?」
何の気無しに返事をする暁彦。しかし一紗は何も言わない。
(名前で呼べた。第一段階クリア!)
と、心の中で叫んでいる。
「何の用なんだ?」
「う、うん、え、え、えっとね」
妙にギクシャクした動作で、一紗は携帯電話を取り出す。
「あ、あのさ。携帯番号とメアド教えてよ。番号を知っておいた方が、連絡する時に楽だからさ」
「わかった」
相手の緊張には気づかず、暁彦は番号を伝える。
 もちろん、一紗が心の中で「第二段階クリア!」と叫んでいることにも気づいていない。
「あ、バスが出発だ」
浮き足だった一紗の言葉のあとに、バスの扉が閉まった。


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