長谷部大学病院の別棟、最上階の一番奥。入院している眠り病患者は、全員この階にいる。
 当初は、感染経路が全く不明で恐れられていた眠り病だが、感染力はきわめて弱いということで、病院の辺境ながらも患者は一般病棟に移っている。何人かは退院し、家で看病を続けているようだ。
 一紗がいるのは、六人部屋の一角。この部屋に現在入院しているのは四人。他の見舞客は来ていない。
 入り口に一番近いベッドでは、茶髪のショートヘアーの少女、宇都木真奈美がすやすやと眠っている。頬が少々こけていて顔色が悪いこと以外は、本当にただ眠っているだけに見える。
「マナ、また来たよ」
眠ったままの真奈美に話しかける一紗。当然返事はないが、一紗は少しでも刺激になればと思い、見舞いに来るたびに話しかけている。
「今、眠り病のことを調べているから。目を覚ます方法があるらしいんだけど、まだわからないんだ。もう少し待っててね」
返事の代わりに、スースーと規則正しい寝息が聞こえる。
 少しためらった後、一紗はまた話し出した。
「マナの言ったこと、本当になっちゃった。日下部くんに片思いだよこんちくしょう」
つぶやく一紗の頬は、ほのかに赤い。
「告白はまだしないよ。日下部くん、恋愛には全く興味がなさそうだから、今は外堀を埋めているところ」
真奈美なら、絶対に根掘り葉掘り聞くんだろうなと思いつつ、今は色々聞かれてもいいから、目を覚ましてほしい。と、切に願う。
 廊下から、わずかだがパタパタという足音が聞こえた。一紗は口をつぐみ、眠る友人を眺める。
「あら、森永さん。また来てくれたのね」
「こんにちは。おじゃましてます」
小柄だが落ち着いた雰囲気の女性が入ってきた。真奈美の母親である。
 一紗はすぐに椅子から立ち上がるが「そのまま座っていてちょうだい」と彼女は言う。
「マナの状態は相変わらずですか?」
「ええ。まだ目が覚める見込みはないそうよ」
「そうですか」
眠り病が治る方法があるらしいと、真奈美の母親が聞いたら何て思うのだろう。と一紗は考える。
「ねえ、森永さん」
「はい?」
「もし、もしも、眠り病が治る方法がある。って言われたら、信じる?」
「え!?」
口から心臓が飛び出るのではないかというくらい、一紗は驚いた。
 真奈美母の表情は真剣そのもので、冗談を言っているわけでも、希望を述べているだけでもなさそうだ。
「あの、その、内容にもよりますが…」
「さっきね、スーツを着た五十代くらいの男性から『ここなら眠り病を治してくれますよ』って、ある場所の名前と住所が書いてある紙を渡されたの。怪しいけど、彼は真剣そのものだし、男性自体はしっかりしていそうな人だから…」
「見せてもらっていいですか?」
母親は素直に紙切れを一紗に渡す。名刺の裏側のようで、そこには『アシアナ教会』という文字と、詳しくはわからないが、月夜埜市でもかなり山奥の住所が書かれている。
「アシアナ教会? ただの新興宗教団体みたいですけど、大丈夫なんですか?」
「人の弱みにつけ込んだ詐欺の可能性は高いと思うけど…」
一紗は紙切れを裏返す。表は普通の名刺で、会社名と名前と住所が書かれている。
 が、内容を見た一紗はさらにびっくりした。
「これって…」
リサイクル100%再生紙使用と小さく印刷された生成り色の名刺には『株式会社ナチューラグリコーポレーション 代表取締役社長 高清水昇太郎』と印刷されている。
「その名刺がただのメモ用紙なのか、知り合いなのか、本人なのかわからないけど。
 本人だとしたら、なぜ私にアシアナ教会のことを教えるのか疑問なんだけど…」
「すみませんおばさん。今日は失礼します!」
話を遮って一紗は言うやいなや、不思議そうにしている真奈美母を置いて、病室を飛び出した。

 走りたい気持ちを抑えつつ、一紗は大きな音を立てないように急いで病棟の奥へと進む。
 一番突き当たりの個室に、克巳の姉が眠っている。彼女の見舞いに行っている克巳と合流するつもりだ。
「さっきの名刺の名前は、ほぼ間違いなく克巳さんのお父さんのものだろうけど。おばさんに名刺を渡したのは本人なの?」
とにかく克巳に聞いてみようと思った一紗の足は、自然と速くなる。
 大急ぎで歩いていると、突然「何考えてるんだ!」と、奥から怒鳴り声が聞こえた。
「今の声って、克巳さん?何が起こったんだろう」
可能な限り早足で突き当たりの部屋へ行く。
 一番奥の、扉が全開の病室の中では、中年男性につかみかかっている克巳の姿が見えた。
「勝手なことをしやがって親父は!」
「うるさいぞ克巳。ここは病院だ」
襟を掴まれている男性は全く動じず、克巳をいさめている。
 50代前半くらいの、背は高くも低くもないが、がたいがいい男性。白髪交じりの髪の毛をキッチリとまとめ、高そうなスーツを見事に着こなしている。ロマンスグレーという言葉がぴったりの風貌だ。
「関係ない! それよりどうして姉さんを連れて行ったん!?」
「いい加減にしないか。手を離せ」
動じないまま、男性は克巳の手を払いのける。青年は手を離したが、再びつかみかからんばかりの様子で相手を睨みつけている。
 一紗はどうしていいかわからず、入り口で二人を眺めているが、克巳も中年男性も気づく様子はない。
 あまり顔は似ていないが、男性は克巳の父、昇太郎のようだ。
「正気か、親父。姉さんをアシアナ教会に連れて行って、どうするつもりだ?」
(えっ!?)
アシアナ教会。という単語に、一紗は反応する。
(じゃあ、さっきおばさんに名刺を渡した男性って、本当に克巳さんのお父さんなの?)
「決まっているだろう。薫子の病気を治してもらうんだ」
「冗談じゃない! うさんくさい宗教団体に、眠り病が治せるわけないだろう!」
「うさんくさいとは何だ。アシアナ教会を馬鹿にする奴は、息子でも許さん」
「許さなかったらどうするんだ?」
いきなり、父親は拳で克巳の頬を殴った。吹っ飛びはしなかったが、殴られた勢いで克巳はよろけ、数歩後ろに下がった。
 突然のことに、一紗も驚いてその場に固まってしまう。
「克巳もアシアナ教会に来い。私は薫子が目覚めたら、すぐに仕事に戻らなければいけない。おまえが薫子を連れて帰るんだ」
切れた口の端をぬぐう克巳は、返事の代わりに父親を思いきり睨む。
 父親は息子の態度を黙殺し、そのまま背を向け、入り口へ向かう。
「まずい!」
一紗はあわてて顔を引っ込めるが、遅かった。
 入り口に突っ立っている女子高生を見て、昇太郎はいぶかしげな表情を浮かべる。
「誰だ、君は」
「も、森永といいます。克巳さんにお世話になっている者です」
低い声で脅すように言われた一紗は体が縮み上がりそうになるが、何とか返事をする。
 何か言われるかと身構えたが、昇太郎はさして興味がなさそうに相手を一瞥すると、そのまま部屋を出て廊下を戻っていった。
 昇太郎の姿が見えなくなった事を確認すると、すぐに克巳の側に駆け寄った。
「克巳さん、大丈夫ですか? ほっぺた腫れてますよ」
「大丈夫。冷やしておけば治るさ。一紗ちゃんはずっと入り口にいたのかい?」
黙って一紗がうなずくと、克巳は苦笑いを浮かべる。
「参ったな。みっともないところを見せちゃったね」
「それよりも、お姉さんを連れて行ったって言ってなかったですか? アシアナ教会に連れて行ったとか」
「…それも聞いていたのか…」
克巳から笑みが消え、代わりに困惑が浮かぶ。
「何なんですか、アシアナ教会って。眠り病を治せるみたいな事を言ってましたけど」
「ただの宗教団体だよ。病気なんて治せるわけがない。なのに親父は信じ切りやがって…」
「克巳さんも、その教会に行くんですか?」
「ああ。姉さんがいるならば行かざるを得ないよ。ごめんね。家までは送っていくから、今日の話し合いはこれまでにして…」
「私も連れて行って下さい」
克巳の言葉を遮り、一紗が言う。
 驚きの表情で一紗を見る克巳。まっすぐな視線を、少女は真っ向から受け止める。
「眠り病を治せるなんてこれっぽっちも思えませんが、アシアナ教会に行けば、何らかの情報が入るかもしれません。もし万が一病気が治せるならば、この目で見てみたいんです」
「アシアナ教会は閉鎖的な場所だ。外部の人間が入ると、嫌な顔をされると思うよ」
「かまいません。お願いします、連れて行って下さい。
 さっき、マナ…友達のお母さんに会った時、男性にアシアナ教会のことを書いた名刺を渡されたそうです」
「アシアナ教会の事?」
克巳の驚きが、さらに大きいものになる。
「はい。名刺にはナチューラグリコーポレーションと高清水昇太郎って名前が書いてあったから、克巳さんに聞いてみようと思ったんです」
「親父の奴、見知らぬ人にまでそんなことを…」
厳しい顔つきになる克巳。一紗は不安になりながらも、なおまっすぐ克巳を見る。
「わかった」
諦めたようにため息をつく克巳は、表情を和らげ、少女に答える。
「ただし、彼らの言うことを鵜呑みにしないように気をつけてくれ」
「はい。あの、アシアナ教会って、そんな変な団体なんですか?」
「変かどうかは判断つきにくいが、父が熱狂的な信者のおかげで、僕たちが振り回されているのは事実だね。
 そろそろ行こうか。姉さんを連れて帰らないとね」
「その前に、ほっぺた冷やした方がいいですよ」
「そうだね、男前が台無しだ」
「自分で言っちゃいますか」
「うん、言うね」
話しながら、それどころではないと思いつつも二人はクスクス笑い、廊下を歩いていった。


←前へ 次へ→