「来ちゃった…」
 住所を元に地図を調べ、何とか暁彦が住むマンションにやってきた一紗。ニュータウン傘木地区にある、オートロックで閉ざされた高級マンションが目の前にそびえている。暁彦は一人暮らしらしいのだが、どう見ても高校生が一人暮らしをする住まいではない。
「姫野さんがスポンサーなんだろうな」
面白くなさそうに言う一紗だが、マンションの予想外の高級さと暁彦の家に押しかけた事実に尻込みをしている。
 突撃と言っても、オートロック式出入り口のため中には入れない。入口横にある数字ボタンで暁彦の部屋番号を入力する。
 少し待ってみるが出る気配はない。もう二・三回押してみるが、やはり反応はない。
「いないのか、居留守なのか。出ないんなら帰るしかないかな」
「どうしましたか?」
 あきらめかけた一紗の耳に、覚えのあるよく通る男性の声が聞こえる。振り向くとスーツに眼鏡の美青年が立っていた。
「えっと…高柴さんでしたっけ?」
「忠治で結構ですよ」
柔らかく微笑む忠治は、隙のない出で立ちでマンションの入り口に立っている。
「そのカバンは暁彦くんのでしょうか。彼はどうかしたんですか?」
「あ、あの、実は…」
ちょっとだけ迷ったが、一紗は正直に朝起きた出来事を話した。話を聞いた忠治は端正な顔を少ししかめる。
「団体行動は苦手みたいですが、それは良くないですね。彼に会ったら言っておきます」
「いや、私も悪いんです。彼のことを考えずにちょっかいばかり出してたから。そうだ。日下部くん家に行くんですよね? だったらお手数なんですがこのカバンを…」
「一緒に部屋の前まで行きますか?」
カバンを渡そうとした一紗に、忠治が提案をする。
「…はい?」
予想外の提案に、一紗の思考が停止する。
「せっかく来て下さったのですから、部屋まで案内しますよ」
「え、で、でも、おせっかいで来ただけですし。迷惑なだけだと思います」
「怒られたら、私のせいにして下さい」
「そんなことできませんよ…」
「暁彦くんのカバンは持ちましょう」
返事を待たずに、暁彦のカバンを持った忠治が、一紗を促す。ここまでされると、引くことなどできない。
「わ、わかりましたっ」
こうなりゃとことん付き合ってやる。と半ばヤケになった一紗は、忠治の後に付いていった。


「忠治さんは、どんな用事で来たんですか?」
 暁彦の部屋へ向かう途中のエレベーターの中。沈黙が苦手な一紗は忠治に話しかけてみた。
「皆で夕食を食べに行こうと誘いに来たんですよ。電話したのですが繋がらなかったので」
答える忠治は笑っているが、どこか作り物のような現実味がない笑顔である。
「それにしても森永さん。ご主人様の忠告も聞かずに、暁彦くんに話しかけたりカバンを届けたりしてるんですね」
 人形のような笑みを浮かべたまま、問いかける忠治。
 真顔で言われるよりある意味恐い問いかけに一紗は体をこわばらせた。背中を冷や汗が伝う。エレベーターという密室では、逃げる場所もない。

 ご主人様。というのは、姫野真咲(ひめのまさき)のことであろう。

 暁彦たちにより危機一髪のところを助けられたとき一緒にいた、中学生くらいの外見の女性。彼女は、忠治と暁彦を自分の所有物扱いしたあげく、一紗に向かって『これ以上関わったらダメ』と言ってきたのだ。暗い瞳を持つ女性の高圧的な態度に、一紗は反発することができなかった。

「緊張しないで下さい。ご主人様に告げ口したりしませんよ。第一、私に関してはこちらから話しかけたのですから、同罪です」
目をそむけ、体を硬くしてうつむく一紗に、忠治は優しく諭す。
「ご主人様の命令に逆らう形になってしまうのですが、森永さんには暁彦くんと仲良くしていただきたいのです」
「え?」
忠治の発言に、一紗は目を見開く。
「暁彦くんは、家族や友人という存在をほとんど知りません。今、高校に通っているのも、姫野さんの命令でとある調査をする為です。
 彼は、普通の生活とは無縁の人生を送ってきました。だからこそあなたと関わることにより、少しでも普通の高校生活を過ごしてもらいたいのです」
「買いかぶりすぎですよ。私にはたいしたことはできません」
「いつもの森永さん通りに接していただければいいですよ。もっとも…彼自身がどう思っているかは、わかりませんけど」
忠治は小さく付け加える。
 その言葉が、なぜか一紗の胸に響く。
 ポーン。とエレベーターから軽快な音が響き、暁彦が住む階に着いた。

 暁彦の部屋の前まで来た二人。玄関のチャイムを忠治が押すが相変わらず返事はない。
「おかしいですね。あまり出かけたりする子ではないのですが。少し失礼します」
忠治は携帯を出し、電話をかける。すぐに手に持っている暁彦のバックから振動音がした。
「震えてますね」
「暁彦くんの携帯はここみたいですね」
苦笑する忠治に、やはり苦笑を返す一紗。
「申し訳ないですが、おじゃましましょうか。少々お待ちいただけますか?」
「あ、はい」
青年は、スペアであろうカードキーでドアを開け、部屋の中に消えていく。
「日下部くんいるのかな。謝らなきゃいけないんだけど…」
 顔を見たい気持ちと、顔を合わせたくない気持ちが半々。
 複雑な気分で待っていると、忠治が戻ってきた。顔には困惑が浮かんでいる。
「いなかったですか?」
「はい。荷物だけは置いてきましたが…」
返事をする忠治は名刺を取り出し、一紗に渡す。
「ここに私の携帯番号が書いてあります。もし暁彦くんを見かけたら、電話をいただけますか?」
「は、はい。わかりました。それにしても日下部くん、どこに行っちゃたったんでしょう」
「多分、どこかで時間をつぶしているのでしょう。大丈夫ですよ。そろそろ行きましょうか」
「そうですね」
住人がいない部屋の前を立ち去る二人。
 ベージュの壁とチョコレート色のドアが、なぜだか妙に寂しく見えた。


←前へ 次へ→