翌日の夜埜高校。
 身体の異常も無く元気に登校した一紗だが、教室に入ろうとしたとき、50歳周りのヨレヨレのスーツを着た男に呼び止められた。1年C組の担任、山部(やまべ)がのんびりとやってくる。
「おはよう。調子はどうだ?」
「おはようございます。全然大丈夫ですよ」
元々一紗は体調が悪かったわけではない。元気いっぱい、いつもの調子で返事をする。
「そうか。そりゃ良かった。…で、ちょっといいか?」
「何ですか?」
少し思案した山部は、複雑な表情で一紗に聞いてくる。
「森永は、宇都木の病気のことは知ってるんだよな?」
「病気? 眠り病のことですか?」
黙って頷いた山部は頭を掻き、言いづらそうに口を開く。
「あー、他の人間には、その、あれだ、眠り病の事は内緒にしておいてほしいんだ」
「内緒に? 何でですか?」
一紗が聞き返すと、山部は困り顔のまま答える。
「眠り病は噂ばかりが先行して、実態がわかりにくい病気らしいからな。不必要に騒いだり噂が広まったりしないようにしたいという、両親と学校の方針なんだ。みんなには交通事故と説明しているから、悪いが承知しておいてくれ」
「…わかりました」
答える一紗の声のトーンは暗い。担任から視線をそらし眉をしかめる。納得していないのだろうと山部は思ったが、なら今の話は無かったことにしていいよ、とも言わない。
「呼び止めて悪かったな。森永も無理すんじゃないぞ」
「大丈夫ですよ」
「んじゃ後ほど」
山部は手をあげると、ヨタヨタと廊下を戻っていった。
 立ち去る担任を、しかめ面で眺める一紗。
「先生の言うこともわからなくないけど、だからといって、わざわざ眠り病のことを隠すなんておかしいよ」
 納得はしていないが、言いふらす必要がないのも事実。モヤモヤした気分のまま一紗は教室のドアを開けた。
「あ、森ちゃん」
「おはよう。今日は来たんだね」
「風邪はもう平気か?」
「風邪?」
一瞬、何を言われたか理解できない一紗だったが、すぐに山部に言われたことを思い出す。眠り病に関連して、一紗の欠席の理由もでっち上げられたのだろう。
「ああ、平気平気。森永一紗、完全復活だよーん!」
「なんだよもう復活か。森永がいないクラスは、静かで平和だったぜ」
「うわあひっでーその言い方。こっちは高校三年間は無遅刻無早退無欠席でいこうという野望が打ち砕かれて傷心しまくってるのに」
「良かったじゃない。森ちゃんは何とかじゃないと証明されたのよ」
「ちょっと。私がバカだと言いたいわけ?」
「自分で言っちゃあ、おしまいよ?」
「さすがはバカズサ」
「おい! 変なあだ名つけるんじゃねえよ!」
「いいじゃん、バカズサ」
「いよっバカズサ」
「ブラボーバカズサ」
「バカズサ連呼するなあっ!!」
クラスメイトが爆笑し、怒っていた一紗もつられて笑い出す。
「ねえ、森ちゃん」
笑いが落ち着いたとき、背中の半分くらいあるレイヤーがかかった髪型の、水瀬明里(みなせあかり)が話しかけてくる。
「マナが交通事故にあったって聞いた?」
明里の言葉を聞いた一紗に動揺が走る。
「う、うん。さっき先生から聞いた」
「交通事故で重傷だって。今は面会謝絶だって言ってたよ」
「そ…そっか。大丈夫かな、マナ」
動揺を隠しつつ返事をする一紗。
「大丈夫だといいよね」
「そうだね」
言って、一紗は真奈美の席を見る。
 今は学校に来ていない席の主は、本当は交通事故じゃなくて眠り病なんだよ。と、一紗は心の中で言った。

 一紗が自分の席に行ったと同時に、予鈴が鳴った。
 荷物を置くと、左隣に座っている暁彦を見る。相変わらずクラスメイトとは一言も話していないらしい暁彦は、今日は窓の外ではなく、持ってきた新聞を読んでいる。眉を寄せて新聞を読む暁彦が、心なしかいつもより疲れているようだ。
「日下部くん」
一紗は小さい声でクラスメイトに声をかける。しかし、いつものごとく暁彦は返事もしなければこっちも見ない。
 かまわず一紗は、新聞を読んでいる暁彦の横にアメを一つ置く。
「疲れてるみたいだぞ。これを食べて元気出してね」
暁彦は顔を上げ、目の前にいる少女に視線を向ける。
「…おまえは」
口を開く暁彦の声は、明らかに苛立っている。
「人の忠告に従うことができないのか?」
「忠告って、姫野さんが言っていたこと?」
「あの人の名前を学校で口に出すな」
さらに暁彦の表情が険しくなる。
「俺も言ったはずだ。おまえと関わるつもりはない。学校帰りに少し話をしただけで、おまえは厄介事に巻きこまれた」
「その事なら私も言ったよ。もう遅いんじゃ…」
「この際だからはっきり言っておく」
新聞を乱暴に置き、一紗の言葉をさえぎる暁彦。
「おまえがチョロチョロしていると迷惑だ。俺たちがやっている事に、首を突っ込むなまとわりつくな」
「やってる事って?」
「そうやっていちいち聞いてくるのが迷惑だってのがわかんねえかバカ」
「なんだよバカって!」
「バカにバカといってどこが悪い」
暁彦はしかめ面のまま、勢いよく席を立つ。立ち上がった勢いで机に置いてあったアメが落ちて転がっていく。
「ちょ…どこ行くんだよ。もう授業が始まるぞ」
「関係ない」
吐き捨てるように言い放つと、暁彦は早足で教室を出て行く。
「ま、待ってよ!」
一紗もあわてて追いかけるが、廊下に出たときにはもう暁彦の姿は見えなくなっていた。
「あれ? …本当に足が速いんだから」
何人かの生徒が教室に駆け込んでいく。もう一度あたりを見回すが、やはり暁彦の姿はない。
「なんなんだよ、もう」
つぶやく一紗に合わせるかのように、誰もいない廊下にチャイムが響いた。


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