退院の手続きをした一紗は、バスが来るまでの間待合室で待っていた。当初は母親が迎えに来る予定だったのだが、パートを休むことができなかったので一人で帰ることになったのだ。それ自体はかまわないがバスが来るまでには時間がある。
 暇つぶしも兼ねて、無駄だと思いつつ一紗は眠り病の資料を探してみた。受け付け用の本や、壁に貼ってある病気などの案内ポスター、パンフレットなどを眺めるが、眠り病の資料になるものはない。
「やっぱり資料が作れるほどの情報がないんだろうな、眠り病って」
「調べ物かい?」
つぶやく一紗の隣から、若い男性の声が聞こえた。
 肩に掛かるくらいの脱色した金髪、紫のシャツに黒いスーツというホストのような外見の中性的な美青年が立っている。年は20代前半くらいであろうか。いきなり話しかけてきた派手で軽そうな男性に、思い切り警戒する。
「ごめんね、いきなり話しかけて」
金髪の青年は名刺を一枚取りだし、一紗に渡す。
「とりあえずナンパとか宗教勧誘とか誘拐犯じゃないよ」
有名なリボンを付けた白ネコとその仲間たちのキャラクターが描かれた名刺には、まる文字で『長谷部大学情報処理学部経営情報システム学科3回生 高清水克巳(たかしみずかつみ)』と書いてある。
「……」
警戒レベルを上げた一紗は、さらにいぶかしげな視線を青年に向ける。
「そんな熱い視線を向けないでくれよ。君も眠り病のことが気になっているみたいだから、声をかけてみたんだよ」
「眠り病?」
「ああ」
相手の緊張がほんの少しだけ解けたことを確認した克巳は、話を続ける。
「僕の姉が眠り病にかかっていてね。自分でもいろいろ調べているところなんだ。君も、身近な人が眠り病にでもかかったのかい?」
「は、はい。友人が…」
顔をくもらせる一紗に、青年は大げさに眉を寄せる。
「すまない。そんな悲しそうな顔をしないでおくれ。君の魅力が台無しだよ」
「はあ」
演技がかった克巳にどう反応したらいいか一紗は困ってしまう。一紗の様子を知ってから知らずか、克巳は話を続ける。
「眠り病を調べるために、一人でも多くの協力者が必要なんだ。まあ協力するかはさておき、話だけでも聞いていかないかい? 医者が知らないようなことも聞けるかもしれないよ」
「医者が知らないこと?」
「例えば、医学的側面以外から見た眠り病の噂とか。うさんくさい情報がほとんどだけど」
好奇心旺盛な一紗の心がくすぐられる。が、まだ警戒心が勝っているため、首を縦に振れない。
「無理強いはしないけどね。もし興味があったら、名刺に携帯番号が書いてあるから、連絡をくれればいつでも教えるよ」
さわやかな笑みを浮かべた後、背中を向ける克巳。
「あ、あの」
立ち去ろうとした克巳を、一紗は呼び止めた。
「なんだい?」
「やっぱり、眠り病のことを教えてもらえませんか?」
好奇心が勝った一紗は、考える前に声をかけていた。


 病院のすぐ近くにある長谷部大学の食堂で、克巳におごってもらったココアを飲む一紗。大学の食堂に高校生が入っていいのかは不明だが、特に注意される様子はない。
(ちょっと軽率だったかな)
 病気のことは気になるが、医者でもわからない事柄なのに一介の大学生がさらなる情報を持っているとは考えにくい。
「さて、どこから話そうかな」
一紗の様子を気にする事なく、コーヒーを手に持つ克巳がつぶやく。
「森永一紗ちゃんだったよね? 一紗ちゃんは医者から眠り病の説明は受けた?」
「はい」
「じゃあ、症状については知ってるね」
一口コーヒーを飲んでから、克巳は話を続ける。
「眠り病が最初に発見されたのが約2ヶ月前。それから月夜埜市ばかりに眠り病患者が見つかり、現在は約20人ほどが病気にかかっている。患者に共通点はなく、老若男女がかかっているね」
「子どもからお年寄りまで病気になっているって事ですか?」
「確か、下は8歳から上は73歳までいるね。ただしどの患者も家族や友人知人の発病はない。だから、伝染病ではないだろうと言われているんだ」
「へえー」
スラスラと出てくる情報に、青年の怪しさも忘れた一紗はただただ感心する。
「すごい調べているんですね」
「知り合いに変人が多いからね。情報には事欠かないよ」
答えになっているのかなっていないのかわからない返事をする。
 もう一口コーヒーを飲んだ克巳は、改まった表情で相手を見つめる。
「さて。これから話すことは、科学的根拠のない噂話のたぐいになる。真に受けないで聞いてほしいんだ」
いったん口をつぐみ、克巳は一紗の様子を見る。一紗はどう受け取っていいかわからないが、話だけは聞いてみようと思い、そのままうなづく。少女の了承を得て、克巳は話しだした。
「怪しい集団が呪いをかけて相手を眠り病にしているとか、選ばれた人間を捜すための選別の犠牲になった人だとか、もっと怪しい噂になると『夢人』と呼ばれる存在が幸せな記憶に閉じこめておくとか。ネットを中心に、そんな噂が横行している。下らない話だよ」
「確かに」
青年が言う通り、下らない噂だと思う。病気が不可思議なだけに、この手の噂もいろいろと蔓延しているのだろうと、一紗は考える。
「克巳さん…と呼べばいいですか?」
「かまわないよ。なんだい?」
「お姉さんが眠り病にかかっているって事ですが、お姉さんとの面会はできないんですか?」
「今のところはね。僕は医者や看護婦の隙をついて、こっそり見舞いに行っているけど。さっきも言ったように、伝染病の可能性は非常に低いから問題はないはずだけどね」
姉のことを大切に思っているのだろう。笑顔で話す克巳だが、どことなく痛々しい。
「姉は、最初の眠り病患者なんだ。体もだいぶ弱ってきている」
「最初の?」
「ああ。おかげで新種の病気と判断されるまで、結構時間がかかったよ。僕としてはそんな認定はいらないけどね」
無理矢理微笑んでいる顔が、ますます痛々しい。
「生命維持活動はしているけど、筋力と内臓機能の低下は避けられない。眠っているだけとはいえ、命の危険も十分にあるんだ」
「そう、ですか…」
克巳に言われ、ずっと眠っているときに弊害がある事実について初めて考えた。眠りの森の美女みたいにただ眠り続ける病気だと思っていた一紗は、認識が甘いことを悟る。
 患者第一号の克巳の姉。克巳も家族もいろいろ思うところがあるだろう。
「いろいろ教えてくれて、ありがとうございます」
「僕はまだ眠り病について調べているからね。気になることがあるときは連絡してくれれば教えるよ」
 返事をせず、考え込むような表情の一紗。
 しばらく黙っていたが、意を決して口を開く。
「克巳さん」
ギュッと拳を握り、緊張した面持ちで克巳を見つめる。
「眠り病のこと、私ももっと知りたいんです。役に立てるかわかりませんが、私も眠り病を調べるのに協力します。いえ、ぜひ協力させて下さい」
決意みなぎる瞳で見つめられた克巳は、最初は驚いたが、すぐに華やかな笑顔になる。
「ぜひ、協力してくれ。そう言ってもらえると僕もうれしいよ。よろしく、一紗ちゃん」
「よろしくお願いします」
克巳が右手を差し出す。少し躊躇したが、一紗も手を握り返した。
「一紗ちゃん。一つだけ気をつけてほしいんだ」
手を離した克巳が切り出す。先ほどまであった笑顔も消えている。
「もし、アシアナ教会という団体が眠り病を治すと言って近寄ってきても、決して信用してはいけないよ」
「アシアナ教会?」
「月夜埜市に拠点を置く新興宗教団体だよ。このあたりで布教活動はしてないみたいだから知らなくてもおかしくはないよ。街はずれの山の斜面にある、えんじ色の屋根がある奇妙な洋館があるのは知っているかい? あれが、アシアナ教会の総本部だよ」
山間にある建物なら一紗も見たことがある。個人の家にしてはへんぴなところにある上、非常に大きく、看板なども無いため何の建物だろうといぶかしんだ記憶がある。
「アシアナ教会の奴らは、水面下ではあるけれど、眠り病を治すという触れ込みで多額の金銭を要求しているらしい」
「そうなんですか? 本当だとしたらひどいですね」
「普通に考えて、ただの宗教団体が病気を治せるわけがないんだ」
半分独り言のように反す克巳からは、アシアナ教会に対する怒りや恨みを感じる。
「普通は治せるわけがない。治せるわけが。だから…」
さらに小さい声で克巳がつぶやく。
「治せたとしたら、異質な力が働いている」
最後のつぶやきは、一紗には聞こえなかった。


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