どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 空が黄色とオレンジの間くらいの色になり始めた頃、新聞を読み終わったのか男がつまらなそうにあくびをする。
「日下部、来ねえな」
いい加減、手足がしびれてきた一紗がビクリと体を震わせる。
 彼が来なければ一紗は殺されてしまう。
「ここでこいつといても仕方がないな。下で待っているか。おとなしくしてろよ。っと言っても何かできるわけでもないだろうがな」
サングラス男はそれだけ言うと、ドアのない入口から出て行ってしまった。
「……ふーっ」
 事態が好転したわけではないが、一人になった事で少しだけホッとする。
「日下部くんの忠告は誇張じゃなかったんだ。このまま私は殺されちゃうのかな」
今のままだと一紗か暁彦、あるいは両方殺される事になる。
「この縄、ほどけないかな」
どうにかならないかと手首を動かしてみるが縄がゆるむ様子はない。パイプベッドがガタガタと揺れ、パイプベッドに繋がっている縄が少し下に動いたくらいだ。
 しかし、一紗はもがくのを止めた。
 しばらく考えた後、パイプベッドに繋がれている部分をベッドの一番下までずり下ろし、ほとんど横に寝転ぶ状態にすると下半身をベッドの下に潜り込ませる。
 可能な限りうつ伏せになると、足の裏を上に向けひざを曲げる。
「せーのっ!」
バン! と足の裏でベッドの底を蹴り飛ばし、ベッドの足が浮いた隙に縄の結び目をさらに下ろす。
「痛っ!」
ベッドの足が一紗の手首に落ちる。縄が抜けきれなかったのであろう。
「ぐ…。でも、これって縄が抜けるかもって事だよね。よし」
手首の痛みを我慢し、もう一度同じ姿勢でベッドの底を蹴り飛ばす。
「うわっ!?」
勢い余って体が床を滑った。ベッドから1メートルほど離れた一紗は、縄がベッドから外れた事を理解する。さらに。
「これはラッキーかも」
手を動かすと手首に巻かれている縄も解けた。一本のロープで結んであったらしい。
「うっ」
左手首に鈍い痛み。先ほどベッドの足でぶつけたところであろう。見ると手首が真っ赤に腫れている。骨は折れていないようだが、かなり勢いよくぶつけたようだ。
「痛がってばかりもいられないな。足のロープも解かないと」
自由になった手を使ってロープを解こうとするが、解けるどころかゆるむ様子もほとんど無い。
「ナイフみたいなものがあればいいんだけど」
あたりを見回すと、床に散らばったガラスの破片が目に入る。
「あれでどうにかならないかな」
床をはうように移動し鋭いガラスの破片を手に取ると、ひざに結んであるロープから切り始めた。
「ガラスだと、なかなか切れないな」
頑丈な縄と格闘していると、コツコツコツと靴音が近寄ってきた。
「まずい!」
手首のロープをお尻の下に隠し、手を後ろに回してパイプベッドのすぐ横につける。
「おとなしくしているようだな」
部屋に入ってきた男は、小さくなっている一紗を見て不敵に微笑む。一紗はばれないようにと祈りながら、従順なフリをして男を見る。
「そのままおとなしくしていれば日下部が来たら解放してやるよ。あいつが来る事を祈っているんだな」
男は一紗の様子に気付くことなく、再び部屋を出て行った。
「はー…」
男の気配がなくなると、一紗は思わずため息をつく。背中は冷や汗でびっしょりだ。
「今のうちにロープを切らないと」
 ガラスの破片を手に取ると、再び一紗は作業に取りかかった。


 格闘の末、一紗は何とかロープを解く事に成功した。濃いオレンジの光が部屋に差し込んでくる。
 長時間ロープで縛られしびれている足を慣らしながら窓の外を見ると、離れたところに夕日に照らされたたくさんの家が小さく見える。下を見ると4・5階はありそうだ。
「窓から逃げ出すのは無理か。素直に出口を見つけよっと」
あたりに人の気配がない事を確認すると、一紗はそっと部屋を出た。
 無機質な灰色の廊下、ベッドが並んでいる部屋がいくつもある。すり切れたプレートには「502」「510」「ナースステーション」などと書かれている。病院の廃墟のようだ。
 途中、下り階段を見つけるが、ここからだと男が来る可能性があるので通り過ぎる。
「月夜埜市で病院の廃墟って言うとノノムラ病院だけど、ここが月夜埜市とは限らないし…」
 廊下の端「非常階段」と書かれたドアの前に来た。ドアは重かったが鍵はかかっておらず、ゆっくりと開く。
 扉の先は外にむき出しの鉄の階段。左手から橙色の光が階段と一紗を照らし、緩やかな風が制服をはためかせる。再び誰もいない事を確認すると、しびれる足にむち打ってゆっくりと降りていった。

 2階と1階の間にさしかかり、もう少しで下に着くというとき、建物の影から黒い人の影が見えた。
「やばっ!」
一紗はとっさに物陰に隠れようとしたが、黒い影はこちらに駆け寄ってくる。
「待て!」
人影…サングラス男が叫ぶと懐からピストルを出す。
パスッという音のすぐ後に足下でカツンと鉄の階段に固いものが当たる音がする。
(恐い! 当たるな!)
待てと言われれて待つ人間はいない。男から逃げようと一紗は階段を戻り、2階の非常口のドアに手をかける。
「ひゃあっ!!」
ガツンと大きな音を立て、一紗のすぐ側に弾が当たる。一紗はノブを回そうとするが鍵かかかっているのか開かない。
 男はすでに階段の下までやってきた。非常口から入ることを諦め、再び階段を駆け上がる一紗だが。
「わああああ!?」
いきなり視界がグルグルと回り、そのまま体に強い衝撃が来た。階段を踏み外した一紗は半階分転げ落ちたのだ。
 あわてて体を起こすが、男は追いつき一紗の目の前に立っていた。銃口は一紗に向いている。
「おとなしくしてろと言っただろう」
ドスの利いた、すごみのある男の声。夕日とサングラスのせいで表情が読み取れないことが、より一層恐怖を駆り立てる。
「今回だけは許してやる。立て。次に逃げたら殺すからな」
一紗は震える体をムリヤリ動かし、ヨロヨロと立ち上がる。
「来い。変な気を起こすんじゃないぞ」
男は左手で一紗の腕をつかみ、背中に銃口をつけ、病院の廃墟に戻っていく。

(私、本当にどうなるんだろう)
 銃を突きつけられ、歩きながら一紗は思う。
(日下部くんの言うことを聞かなかったから、こんな目に遭ってるんだよな)
そう考えても、まさか誘拐されるなどとはのんきな生活を送っている一紗には想像もつかなかったであろう。細かく説明を受けたところで、信じなかったに違いない。
(実際に自分の身に起こらないと理解できないんだもの。バカだよね。これはバカな私の報いかな)
先ほども思ったことだが、暁彦はきっと来ない。万が一暁彦が来たとしても、それは暁彦の犠牲を意味する。
(私にはどうにもできないの?)
冷たい感触を背中に感じながら、一紗は思った。


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