目を開けると、薄暗い景色が見えた。
 かつては白かったであろう薄汚れた壁と床。パイプベッドとベッドを仕切る破れたカーテンが目に入る。
 反対側を向くと、ガラスが割れた窓とやはり役目を果たしそうにないボロボロのカーテンがある。ガラスは内側から割られたのか破片はあまり落ちていない。割れた窓の外には薄い色の青空が見える。山しか見えないのは高い建物の上にいるか、高台にあるからだろう。
「……?」
 少しの間事態が理解できない一紗であったが、やがて男とのやりとりを思い出した。
「あっ! そうだ。あの時に私…」
意識したとたん腹部あたりに鈍い痛みが走る。みぞおちを殴られ、気絶させられたのであろう。
「あんにゃろう。みぞおちは強く殴ると死ぬんだぞ」
お腹を押さえようとするが、手が動かない。
「…こうなるか」
一紗自身は床に座っているが、ひざと足首、それに後ろ手に手首が縛られている。相当きつく結んであるのか、動かそうとしてもびくともしない。さらに手首はパイプベッドに縛られているようだ。口がふさがれていないのは、あたりに人がおらず大声を上げてもムダという事であろう。
 通学カバンも見あたらない。体を動かしてみるがブレザーのポケットに入っていた携帯電話も取り上げられているようだ。
「ん? 目が覚めたか、森永一紗」
入口近くに、どこから持ってきたのか古びた事務椅子に座る男がいる。背格好や声は先ほど道を聞いた男と同じだが、先ほどとは違い真っ黒なスーツにサングラス姿である。
「どうして私の名前を?」
「荷物の中身を調べさせてもらった」
男に言われた一紗は、生徒手帳は変なプリクラや落書きがあるから見られたらどうしようとか、お菓子がたくさん入っていて恥ずかしいなど、変な方向に思考を巡らせる。
「あんたにこれ以上危害を加えるつもりはない。日下部がおとなしく来てくれればな」
「日下部くんが?」
「ふん。やはり日下部を知ってるんじゃないか」
「知ってるったって」
内心は恐いが極力顔に出さないようにつとめ、強気で一紗は言い返す。
「ただのクラスメイトだよ。あいさつしたって返事してくれないし。だいたいおじさん、日下部くんをどうするつもりなの?」
「お、おじさん…」
男のこめかみがピクリと動く。
 おじさんはまずかったかな。と一紗は思ったが、ここまで強気な事を言っておいて今更引くわけにはいかない。それに自分は人質である。少なくとも今の時点では命の危険はないだろう。
 命以外の危機は色々とあるのだが。
「ま、まぁ」
気を取り直して、男が話す。
「あんたが捕まっているって聞いたら、日下部が駆けつけるかもしれないぞ」
「どうかな。仲がいいわけではないし、身の危険を冒してまで私を助けに来るとは思えないけど?」
一紗は、暁彦が言っていた「きさまに何が起こっても俺は無視するからな」という言葉を思い出しながら答える。
 しかし男はまったく表情を変えない。
「来なかったら別の方法を考えるまでだ。そうなったら用なしのきさまは殺すけどな」
言って男は懐からピストルを取り出す。
「……!」
男は無表情のまま銃口を一紗に向ける。
(お、おもちゃだよね。本物がそうホイホイ出てくるわけないよね)
そう考えながら銃口を逃れようともがく一紗。
 パシュ。と、破裂しきれなかった爆竹みたいな音がした。
 驚いた一紗はピタリと動きを止める。
 銃口からあがる、白く細い煙。おそるおそる一紗は後ろを向くと、窓の下の壁にさっきまではなかった黒い穴が見えた。
「本…物…」
恐怖で一気に血の気が引く。
「逃げようなんて思うなよ」
男はピストルを下ろし、再び入口近くの椅子に座った。
(ど、どうしよう)
一紗は身動きせずに、否、身動きできずに心の中でつぶやく。
 暁彦が来れば、一紗には何もしないらしい。男の言葉を信じれば大人しくしているのが一番だろう。
(でも、日下部くん、来ないよね)
今までの一紗の行動と暁彦の態度を振り返ると彼が来る事は考えにくい。だとすれば、待っていても一紗は殺される。
(だいたい日下部くんを呼びつけて、あいつは何をするつもりなんだろう)
身代金目的の誘拐なら一紗を連れてくる必要はない。荒っぽい手段を使うあたり、穏便な話し合いをするつもりはなさそうだ。
(とすると…考えられるのは…)
その後に続く考えに、一紗はゾッとする。
(日下部くんの…命?)
そっと入口に視線をずらすと男は退屈そうに新聞を読んでいる。
 暁彦が来なかったら、一紗が殺される。来たら、暁彦が殺される。一紗が助かるという保証もない。
(どうしたらいいんだろう)
身動きできない一紗は、途方に暮れてしまった。


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