姫野の屋敷に行った暁彦は、怪我の治療もそこそこに、地下室へ向かう。鋭い目つきで眉をしかめている少年はひたすら機嫌が悪い。
「くそっ…!」
歩きながら暁彦は、先ほどのやりとりを思い出す。

『好き。暁彦くんが好きなの』

涙を流して告白した少女の気持ちを、暁彦は一蹴した。

「本当に、迷惑なやつだ」
つぶやきながら、同時に胸が締めつけられる。
 梨乃のことを内緒にされたのは、正直腹が立った。しかし一紗が姫野を疑っているのは知っているし、おそらく姫野も一紗からの情報は期待していない。向こうの立場なら、必要になるまで情報を隠しておくのは当然だろう。
 だが、原因不明のいらだちが胸の中でくすぶっている。
「どうして、俺に惚れるんだ。あっち側の世界にもっとまっとうな奴がいるだろう。なのに、よりによって俺なんかを好きになるんだ。あいつは…おとなしく日が当たる世界で笑っていればいいんだ」
自分に関わったばかりに、事あるたびにボロボロになる少女。異能も持たず、殺人術を覚える必要のない世界に生きているのに、一紗は自分を好きだといい、側にいたいからと首を突っ込んでくる。
「あれだけ突き放せば、いい加減関わってこないだろう。これでいいんだ、これで…いいんだ…」
自分に言い聞かせるようにつぶやくが、どうしても痛みといらだちは収まらない。
「ちくしょうっ!」
自分で自分に毒づいた暁彦は、ハッと我に返り、足を止める。考えに没頭して目的の部屋を通り過ぎるところだった。
 暁彦は深呼吸をして、頭の中から一紗を追い払う。今は別にやることがある。
 目の前には大きな無機質の扉。ゆっくり叩くと、中から「入っていいわよ」と舌足らずの声が聞こえた。
「失礼します」
「あら。アキがこんなところに来るなんて珍しいじゃない」
広いが無機質の部屋。扉が付いた大きな円筒状の機械の前に、眼鏡にポニーテール姿の少女…少女に見える姫野が、不敵な笑みを浮かべて立っている。一糸まとわぬ姿だが、少年の姿を見ても、恥ずかしがりもせず隠そうともしない。
「す、すみません」
逆に暁彦が横を向く。凹凸が少ないとはいえ、女性の全裸をまともに見た暁彦の頬はほんのりと赤くなっている。
「そこのバスローブを取って」
言われたとおりに暁彦はバスローブを手にし、極力姫野を見ないように渡す。
 衣擦れの音。しばらくしてから「もういいわよ」と声がかかる。
「結構ウブなのね。かーわいいわあ。ちゅーじは顔色一つ変えないし、李京は『風邪引くぞ』ってほざくだけだし、つっまんないのよねえ」
カラカラと楽しそうに笑う姫野。
「で、何の用?」
ペースを乱されっぱなしの暁彦は、姫野の一言で目的を思い出し、呼吸を整える。
「聞きたいことがあります」
「なあに?」
もう一度呼吸を整え、少年は言った。
「梨乃がアシアナ教会にいるって、本当ですか?」
「本当よ」
あっさりとした姫野の回答に、暁彦は、頭に血が上るのを自覚する。
「いつから、知っていたんですか?」
「アシアナ教会と取引するようになってから。森永一紗が首を突っ込んできた頃かしら?」
一紗が首を突っ込んだ頃。だとすると、一ヶ月以上は経っている。
「どうして、どうして教えてくれなかったんですか? 俺が姫野さんに協力する代わりに、梨乃を捜してくれるって約束だったじゃないですか!」
「知ってはいたけど、助けられそうになかったから伝えなかったの」
暁彦の怒りにかまわず、不敵な笑みで姫野が答える。
「あたしも、直接は梨乃に会ったことはないの。うさんくさい教祖からの話と、暁彦にちょっかいを出す教会員の存在を知っているだけ。梨乃を厳重に閉じこめておいて、さらにあんたを渡せってうっさいのよ、あいつ」
「俺を、ですか?」
殺さずに、生かしたまま捕らえると攻撃してきた連中。暁彦の異能を知らない刺客。刺客を送っていないと言っていた門衛のエージェント。
 自分を捕獲しようとしていた相手が、アシアナ教会の信者だと、暁彦は初めて理解した。
「あたしにはわかんないけど、教祖様的にはアキと梨乃、二人が欲しいらしいわよお。そんな状態で、みすみす教えるわけにはいかないっしょ」
「だけど…」
「安心しなさい。もうすぐ助け出すチャンスは来るわ」
言って、ニヤリと笑う姫野。口元は楽しそうだが、細められている目は、ひどく暗い。
「近いうちに、門衛がアシアナ教会を襲うはずよ」
「えっ!?」
「目的は梨乃の捕獲でしょうね。もちろんアシアナ教会側も全力で応戦するっしょ。あたしたちにも協力要請が来ているからね。教祖があんたを狙っているから、アキは外そうと思ったんだけどねー」
暁彦は答えない。怒りの代わりに疑惑が顔に刻まれている。
「嘘じゃないわよ。一緒に行くなら連れてったげる。ドサクサに紛れて、梨乃でも助けたら?もっとも、あたしたちは梨乃の救出は手伝えないし、異能者同士がぶつかり合うから、危険は危険よお」
「かまいません」
疑惑を残しながらも、暁彦はキッパリと答える。
「どんな状況でも、梨乃を助けるだけです」
「本当にそれでいいのね」
「もちろんです」
しばらく姫野は少年を見つめていたが、フッと笑みがゆるむ。
「わかったわよ。詳しいこと教えたげる」
姫野は機械の側に行くと、パネルの上に手を置いてから、近くのマイクに向かって何かをしゃべる。
 程なく、忠治が部屋に入ってきた。
「何のご用でしょうか」
「門衛がアシアナ教会に攻めこむ日はわかる?」
開口一番の質問。ピクリと一瞬だけ忠治の眉が動いたが、すぐにいつもの微笑に戻る。
「確定はしていないようですが、おそらくは来週の金曜日か土曜日になると思われます」
「あっそ。出撃の日が決まったら、アキにも教えたげて」
「わかりました」
忠治が答えると、姫野が肩に掛かったポニーテールの一部を振り払う。
「そういうわけだから、後はちゅーじに聞いてちょうだい。他に質問はある? 無ければアキは退出して」
少しだけ考え、暁彦は「いいえ」と答え、姫野に会釈をしてから部屋を出て行った。
 暁彦が部屋からいなくなったことを確認し、忠治が尋ねる。
「日下部梨乃さんのこと、話したんですか?」
「ばれたのよ。アキに聞かれたから、答えただけ。おそらく森永一紗を通して知ったんでしょ」
「正確には、門衛のエージェントですね。森永さんも知っていましたが」
「情報をこっちに流さないなんて、いい度胸してんじゃんあの小娘。もっとも、門衛やアシアナ教会をかく乱するのには役に立ってるみたいだけどねっ」
「情報を流さないのは、お互い様ですよ。
 決闘の様子を、周りの工場にあるネットワークを経由して監視し、頃合いを見計らって助けに行く。という段取りだったことは、暁彦くんも森永さんも予想すらしていないでしょう」
「当ったり前じゃん。隠すべきところは隠すなんて当然でしょ」
クスクス笑いながら話す姫野。忠治も微笑を浮かべたまま立っている。
「いっそ、アシアナ教会の突入も知らせちゃおっか。あいつが乱入してきたら面白そうじゃない」
「それは難しいと思います。森永さんは暁彦くんに振られましたからね。これ以上暁彦くんのために動いてくれるでしょうか」
姫野の眉が動く。が、無関心を装い「ふーん」とだけ答える。
「私は、森永さんはもう関わってこないのではないかと思います」
「そうかしら?」
再びニヤリと笑う姫野。やはりどことなく楽しそうだ。
「あいつは簡単にめげるタマじゃないっしょ。ま、来たら利用する。来なければ害がない程度だけどさ」
笑ったまま、姫野はバスローブを脱ぐ。クリーム色の布が灰色の床に広がる。
「また『ありす』に繋がってるわ。何かあったら教えてちょうだい」
「かしこまりました」
顔色一つ変えずにローブを拾う忠治を見て、姫野はフンと鼻を鳴らす。
「やっぱ、おもしろくない」
「はい?」
「こっちのことよ。そんじゃ」
軽く忠治をあしらうと、姫野は機械の扉を開け、中に入った。
 姫野のローブを手にした忠治は、表情を消し、機械を見つめた。


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